第9話 海から来た子
少年は、村へ続く坂道を一度も立ち止まらずに駆け上がった。
木々の間を抜け、低い石垣を飛び越える。裸足の裏へ小石が食い込んでも気にせず、朝の支度を始めていた家々の前を走り抜けた。
目指したのは、村の外れにある小さな家だった。
「ばあちゃん! 海に子どもがいる!」
開け放たれた入口へ飛び込むと、老女は土間で朝摘みの薬草を選り分けていた。
老女がいったい何歳なのか、正確に知る者はいなかった。
八十に近いとも、すでに越えているとも言われている。島では最も年長で、彼女より昔の海や森を覚えている者は、もう一人も残っていない。年齢を尋ねても、本人は目尻の皺を深くして笑うばかりで、決して答えようとはしなかった。
小柄な身体を包んでいるのは、何度も洗って柔らかくなった藍色の長衣だった。腰には草の汁で薄茶色に染まった布を巻き、銀色の髪を頭の後ろで太く編んでいる。日に焼けた顔には目尻から頬へ深い皺が刻まれていたが、背筋は真っすぐに伸び、薬草を仕分ける指にも迷いがない。
節の太くなった指や浮き出た手の血管には、長い年月が表れている。一方で、濃い茶色の瞳だけは若いころから変わっていないかのように澄み、相手の胸の内まで見抜きそうな鋭さを残していた。
村の子どもたちは、黙って見つめられると隠していた悪戯まで知られてしまう気がして、彼女を少し怖がっている。それでも怪我をしたときや熱を出したとき、最後に頼るのはいつも彼女だった。
少年の荒い息と、砂に汚れた脚を一目見ただけで、老女の手が止まった。
「落ち着いて話しなさい。どこの子だい」
「知らない。白い箱に乗って流れてきた。息はしてる。でも、冷たくて動かない」
老女の瞳から普段の厳しさが消え、代わりに、人の命を預かるときの静かな緊張が宿った。
それ以上質問せず、壁に掛けてあった大きな籠を取る。中へ布や小瓶を入れ、水の容器と刃物を確かめた。
「浜のどの辺だい」
「東の端。流木に結んできた」
「よく結んだね。案内しなさい」
老女は少年とともに家を出ると、すぐ隣の家へ向かって声を張った。
「誰かいるかい! 人手と荷車を貸しておくれ!」
声を聞きつけ、家の裏で漁網を修理していた男が姿を見せた。四十歳ほどの漁師で、日に焼けた太い腕には細かな古傷がいくつも走っている。
「どうした」
「浜に子どもが流れ着いた。生きてはいるが、動かないそうだ」
男の表情が変わった。
質問を重ねることなく、納屋から二輪の荷車を引き出した。普段は魚籠や薪を運ぶために使っているもので、低い荷台には丈夫な板が張られている。
老女がその上へ薬箱と敷物を載せる。男が荷車を引き、少年が前を走って道を案内し、老女は籠を抱えて後ろからついていった。
浜辺へ戻ったとき、白い箱はまだ流木につながれていた。
少女の片腕が、先ほどより深く砂の上へ落ちている。
「あそこ!」
少年は荷車を離れ、少女のもとへ駆け寄った。
「戻ってきたぞ。もう大丈夫だから」
島の言葉で何度呼びかけても、少女は目を開けなかった。それでも少年は、自分の声が届けば、少女がこちらへ戻ってこられるような気がして、同じ言葉を繰り返した。
老女は少女の傍らへ膝をつき、濡れた髪を顔からよけた。鼻や口に砂が詰まっていないか確かめ、首筋へ指を当てる。胸の動きをじっと見つめたあと、閉じた瞼を片方だけ持ち上げた。
「生きているよ。息も脈も弱いけれど、まだ海には連れていかれていない」
少年の肩から力が抜けた。
「助かる?」
「それは、この子が決めることだ。けれど、こちらへ戻る道は作ってやれるさ」
老女は救命胴衣を調べ、海水を吸って固く締まったロープの結び目に目を留めた。
「誰かが、この子を箱につないだんだね」
「その人はどこにいるのかな?」
老女は一度だけ海を見た。
沖には壊れた船も人影もなく、朝日を反射する穏やかな水面が水平線まで続いている。
「今は、この子を温める方が先だよ」
老女は結び目を残してロープを切り、救命胴衣を慎重に外した。
漁師の男は老女に言われる前に背を向け、海の方を見張った。老女は持ってきた大きな布で少女を隠し、その陰で濡れた服を脱がせる。乾いた布で身体を拭いてから、柔らかな布地を幾重にも巻きつけた。
少女の肩や膝には擦り傷があり、左の脇腹には船の中で打ったらしい青黒い痕が広がっていた。手のひらにも、何かへしがみつき続けたような細い傷が走っている。
老女は傷を一つずつ確かめたが、水を飲ませようとはしなかった。意識のない子どもの口へ無理に流し込めば、かえって息を塞ぐことを知っている。
「頭も打っているかもしれない。なるべく揺らさずに運ぶよ」
老女が少女の頭と首を支え、漁師が小さな身体を布ごと抱き上げた。少年も落ちかけた足を両手で支える。
三人で少女を厚い敷物の上へ寝かせると、漁師は荷車をゆっくりと引き始めた。
少年は白い箱のそばに落ちていた網袋を拾おうとして、砂の上に二つの巻き貝が並んでいることに気づいた。
一つは、自分が少女のそばへ置いたもの。
もう一つは、少女の小さな鞄からこぼれたものだった。形も色もよく似ているが、少女の貝には、この浜では見かけない淡い桃色の筋が入っている。
少年は二つとも拾い、少女の胸元へ置いた。
「この子、どこから来たのかな」
老女は荷車の横を歩きながら、静かな海を振り返った。
「ずっと遠くだろうね。昨夜、この島には雨さえ降らなかった。近くの海から流されたのなら、こんな姿にはならない」
「じゃあ、海の向こうから?」
「そうかもしれないね」
少年は少女の顔を覗き込んだ。
自分たちとは違う白い肌も、見たことのない服も、海の向こうから来たという言葉も不思議だった。けれど、泣き腫らした目元を見ていると、怖いとは思わなかった。
少年は荷車の隣を歩き、少女の手が揺れで落ちないよう、そっと自分の手を添えた。
冷たかった指先には、ほんの少しずつ、人の温かさが戻り始めていた。




