第10話 差し出された手
初めに戻ってきたのは、匂いだった。
青い草を潰したような苦い匂いに、煙と甘い花の香りが混じっている。
次に、どこかで水が滴る音と、葉擦れの音が聞こえた。船を叩いていた雨とは違う。風が吹くたび、乾いた葉が屋根の上で優しく触れ合っていた。
澪は重い瞼を開いた。
見えたのは、知らない天井だった。
太い木の梁から乾燥させた草が何束も吊され、壁際には色の違う小瓶が並んでいる。窓には薄い布と編んだ葉の覆いが掛かり、その隙間から差し込んだ日差しが床に細長い模様を描いていた。
身体を動かそうとした途端、左の脇腹に強い痛みが走った。
「いっ!……」
掠れた声が漏れた。
自分の服ではない柔らかな布が、身体へ巻かれている。肩や膝には葉の匂いがするものが当てられ、その上から細い布で固定されていた。
ここがどこなのか分からない。
父も母もいない。
「マ、マ?」
胸の奥から恐怖が一気に込み上げた。
「ママ! パパ!」
澪は痛む身体を起こし、寝台から下りようとした。足を床へつけた瞬間、力が抜けて前へ倒れかける。
部屋の隅から、小さな影が飛び出した。
誰かの手が澪の腕を支えた。
浜辺で澪を見つけた少年だった。
少年は何かを言いながら、澪を寝台へ戻そうとした。日に焼けた顔は心配そうに歪み、落ち着かせるように何度も同じ言葉を繰り返している。
けれど澪には、一つも理解できなかった。
「やだ! さわらないで!」
澪が腕を振り払うと、少年は驚いて後ろへ下がった。
「ママ、どこ? Where's Mama?(ママはどこ?) パパは?」
少年は答えられない。
「ママ! パパ!」
澪は泣きながら入口へ向かった。二人は外にいるのかもしれない。自分が眠っている間に、先に浜辺へ着いたのかもしれない。
しかし数歩も進めないうちに膝が折れた。
少年が再び駆け寄ろうとしたが、澪は床を這いながら逃げた。知らない顔も、知らない家も、聞いたことのない言葉も、すべてが恐ろしかった。
「Go away!(あっちへ行って!) パパ、たすけて!」
少年はその場にしゃがんだ。
もう澪へ触れようとはせず、自分の胸を指さしたあと、ゆっくり首を横へ振る。それから澪と自分の間の床を指し、両手を見える場所へ置いた。
危害を加えないと伝えようとしているらしい。
けれど澪には、その意味までは分からなかった。警戒したまま壁際へ身体を寄せ、涙に濡れた目で少年の動きを追い続ける。
少年は少し考えてから、もう一度、自分の胸へ人差し指を当てた。
「テヴァ」
ゆっくり、はっきりと口にする。
「テ、ヴァ?」
澪には、その言葉が何を意味するのか分からなかった。
少年は自分を指さすたびに、同じ音を繰り返した。次に、今度は澪の方を指し、尋ねるように首を傾ける。
澪は何度か瞬きをした。
父や母が知らない人へ自分を紹介するとき、同じことをしていたような気がした。胸の奥に、遠い記憶がぼんやりと浮かぶ。
澪は震える指で、自分の胸元に触れた。
「……みお」
「ミーオ?」
少年がすぐに繰り返した。
異なる声で呼ばれた自分の名前は、少しだけ不思議に聞こえた。それでも、嵐のあと初めて知っている言葉が返ってきたことで、澪の強張っていた表情がわずかに緩んだ。
「ミーオ」
少年は確認するようにもう一度呼び、自分の胸を指さした。
「テヴァ」
澪は涙を拭うことも忘れ、その口元を見つめた。
「……テヴァ」
小さく呟くと、テヴァの顔に初めて笑みが浮かんだ。
二人の言葉は、まだ何一つ通じていない。
それでも互いの名前だけは、同じものを指していた。
テヴァはしばらく考えてから、部屋の隅に置いてあった小さな鞄を持ってきた。澪の前へ押し出し、中から二つの白い巻き貝を取り出す。
一つには、淡い桃色の筋が入っていた。
「みおの……」
父と母と一緒に拾った貝だった。
澪は這うように近づき、震える手でつかんだ。耳へ当てると、遠い海の音が聞こえる。
「パパとママ、うみにいるの」
澪は貝を握ったまま、入口の向こうを指さした。
「うみ。ママ、パパ。おふね……ばーんってなって、おみずに……」
日本語の途中へ、英語と幼いころに覚えたイタリア語が混ざった。澪自身も、どの言葉で話せば伝わるのか分からない。ただ、両手を激しく動かして波を表し、指を二本立ててから、遠くへ流されるように腕を伸ばした。
テヴァは黙って澪の動きを見つめていた。
言葉は理解できない。それでも、何を伝えようとしているのかを懸命に考えている。
やがてテヴァは貝を一つ手に取り、海の方角を指した。次に大人二人ほどの高さを手で示し、問いかけるように澪を見る。
「パパとママ!」
澪が激しくうなずくと、テヴァの顔から先ほどの笑みが消えた。
この少女は、ただ海から来たのではない。海に残してきた誰かを探しているのだと、幼いテヴァにも分かった。
彼は立ち上がると、部屋の奥へ向かって大きな声を出した。
しばらくして、老女が姿を現した。
手には湯気の立つ器を持っている。澪が起きていることに驚いた様子はなく、入口近くの床へ座り込んだ澪と、その隣にいるテヴァを静かに見比べた。
テヴァは老女へ早口でなにか話し始めた。
何度も海を指し、二本の指を立て、澪が見せた波の仕草を真似する。最後に、澪が繰り返していた二つの言葉を、たどたどしい発音で口にした。
「ママ。パパ」
老女はテヴァの話を聞き終えると、澪の前に腰を下ろした。
何かを尋ねることも、無理に抱き上げることもしなかった。湯気の立つ器を床へ置き、皺の刻まれた手を、掌を上にしてゆっくりと差し出す。
澪は怯えた目で老女を見つめた。
銀色の髪も、日に焼けた肌も、母とはまったく違う。
それでも、その手は父の手と同じように大きく見えた。傷だらけの自分を捕まえるためではなく、待っていてくれる手だった。
澪の瞳から、新しい涙がこぼれた。
「……ママ?」
老女には、その言葉の意味が分からなかった。
けれど、それが目の前にいる自分を呼ぶ言葉ではなく、この子が二度と失いたくない誰かを求める声だということだけは分かった。
老女は差し出した手を動かさず、澪が自分から選ぶのを待った。
やがて澪の小さな指が、震えながらその掌へ触れた。




