第11話 マレア
澪の指が掌へ触れると、老女は皺の刻まれた手をゆっくりと返した。
強く握るのではなく、逃げたくなればいつでも離せるほどの力で、小さな指を包み込む。
その手は、見た目よりも温かかった。
澪は老女の手と顔を何度も見比べた。銀色の髪も、日に焼けた肌も母とはまったく違う。それなのに、床へ座り込んでいる自分を急かさず、ただ待っていてくれたことが、張り詰めていた心をほんの少しだけ緩めてくれた。
老女は空いている手を自分の胸へ当てた。
「マレア」
「……まれ、あ?」
澪が不安そうに繰り返すと、老女は目尻の皺を深くしてうなずいた。
「マレア」
次に老女は、傍らにいる少年を指さした。
「テヴァ」
「テヴァ」
今度は間違えずに言えた。テヴァが嬉しそうに笑い、自分の胸を何度も叩いてみせる。
最後に二人の指が澪へ向けられた。
「ミーオ」
テヴァに呼ばれ、澪は小さくうなずいた。
「みお」
同じ音を繰り返しただけなのに、それまで知らないものばかりだった部屋の中に、三人分の名前ができた。
テヴァは老女を指さし、今度は別の言葉を口にした。
「プナ」
澪が首を傾げると、テヴァは腰を曲げて杖をつく真似をした。あまりに大げさだったため、老女が細い杖でテヴァの尻を軽く叩く。
テヴァは飛び上がって尻を押さえたが、笑っているところを見ると、本気で痛かったわけではないらしい。
澪は二人のやり取りを見つめたあと、ほんの少しだけ口元を緩めた。
それを見たマレアは、床へ置いていた器を手に取った。
中には、白く濁った温かな汁が入っていた。魚のだしに柔らかく煮た芋を溶かしたもので、青い葉が細かく刻まれている。湯気とともに塩気のある匂いが漂ったが、澪は警戒して顔を背けた。
「いらない。ママのがいい」
言葉の分からないマレアは、無理に器を近づけなかった。
代わりにテヴァを呼び、別の小さな器へ汁を分ける。テヴァは受け取ると、一口すすってから、わざと大きく頬を動かして飲み込んだ。
「おいしいぞ」と伝えるように腹を撫で、澪の方へ笑いかける。
それでも澪が動かないので、テヴァはもう一口飲んだ。今度は熱かったらしく、慌てて口を開け、手で舌をあおいだ。
澪の目が、わずかに丸くなる。
マレアは汁を匙ですくい、何度も息を吹きかけて冷ました。自分の唇で温度を確かめてから、澪の手が届く場所へ器を置く。
飲めとも、口を開けろとも言わなかった。
澪はしばらく器を見つめていたが、やがて空腹に負け、震える手で匙を取った。
一口目は、味がよく分からなかった。
けれど温かな汁が喉を通り、冷え切っていた身体の内側へ落ちていくと、腹の奥に小さな火が灯ったような気がした。
澪はもう一口すくった。
マレアもテヴァも喜ぶ声を出さず、澪が食べる様子をただ黙って見守っていた。
器の半分ほどを口にしたところで、澪の手から匙が滑った。
「ママ……」
身体が急に熱くなり、部屋の景色が揺れ始める。マレアが額へ手を当てると、その顔から柔らかな笑みが消えた。
澪は再び寝台へ運ばれた。
日が傾くころには熱が高くなり、浅い眠りの中で何度も父と母を呼んだ。マレアは濡らした布を額へ当て、汗をかけば身体を拭き、乾いた布へ取り替えた。
テヴァは寝台のそばから離れようとしなかった。
窓から差し込む光が橙色に変わったころ、マレアが家へ帰るよう身振りで促した。テヴァは一度立ち上がったものの、苦しそうに息をする澪を見て、また座り込んだ。
「この子が元気になるまで、手伝わせて」
澪が眠ったため、テヴァは島の言葉でマレアへ頼んだ。
「お前が見つけたからといって、命まで背負う必要はないよ」
「責任だからじゃない」
テヴァは眠る澪の手に握られた、桃色の筋がある巻き貝を見つめた。
「目を開けたとき、知らないところに一人だったら怖い。俺の名前だけは覚えてくれたから、起きたときに俺がいた方がいい」
マレアはしばらくテヴァを見つめていた。
「昼の間だけだよ。家の仕事を済ませて、親の許しをもらってきなさい。ここへ来たら水を汲み、薪を運び、薬草を覚えること。見ているだけでは手伝いとは言わないからね」
「全部やる」
答えだけは立派な少年を見て、マレアは小さく息を吐いた。
「それなら今日は帰りなさい。明日の朝、この子が目を覚ます前においで」
テヴァはようやくうなずいた。
家へ戻る前に寝台へ近づき、眠る澪へ小さな声で呼びかける。
「ミーオ。また明日な」
言葉は届かなかったはずなのに、澪の指が巻き貝をわずかに握り直した。




