第7話 星が見えるまで
「ママ! パパ!」
澪は白い箱の上から、暗い海へ向かって叫び続けた。
波が箱を高く持ち上げるたび、遠くまで見渡そうと首を伸ばした。父の手が上がっていないか、母の赤い髪が浮かんでいないかと、雨で霞む海へ目を凝らす。
「みお、ここだよ! ここにいるよ!」
両親が澪を見失っているだけなら、もっと大きな声で呼べば気づいてもらえる。そう信じて、喉が焼けるように痛くなっても叫ぶのをやめなかった。
けれど‥‥‥返事はなかった。
空が白く光るたび、荒れ狂う海が一瞬だけ昼のように浮かび上がる。そのどこにも父と母の姿はなく、すぐにまた夜より暗い色へ戻った。
「いい子にするから……ママ……」
澪は箱の端まで這い、海へ手を伸ばした。
救命胴衣につながれたロープがぴんと張り、身体へ食い込む。もう少し先まで行けば両親の手に届くような気がして、澪はロープを外そうとした。
けれど、父が震える指で結んだ結び目は、四歳の小さな手ではほどけなかった。
大きな波が押し寄せた。
箱が激しく傾き、澪の身体が海へ投げ出される。冷たい水が頭まで覆い、澪は声を上げることもできずに両手を振り回した。
次の瞬間、救命胴衣とロープに引かれ、身体が水面へ浮かび上がった。
澪は激しく咳き込みながら、箱の取っ手へしがみついた。父がロープを結んでくれなければ、そのまま暗い海へ流されていただろう。
「パパ……」
父がまだ手を握ってくれているような気がして、澪は濡れたロープを胸へ抱いた。
雨に打たれ続けた服は肌へ冷たく張りつき、風が吹くたび身体の奥まで震えた。歯が勝手に鳴り、指先も次第に動かなくなっていく。
「さむいよ。パパ、だっこして……」
どれほど時間が過ぎたのか、澪には分からなかった。
波の頂上まで持ち上げられたとき、遠くに光が見えた気がした。ホテルの明かりかもしれないと思い、澪は懸命に目を開いた。
「おうち……?」
しかし、次の波が箱を沈めるように覆い、顔を上げたときには何も見えなくなっていた。
やがて雨は細くなり、雷も少しずつ遠ざかっていった。それでも海は怒りが収まらないように、白い箱を右へ左へ揺さぶり続ける。
澪の声はもう、囁くほどの大きさしか出なかった。
「ママ……ママのかみ、さわりたい……」
目を閉じると、母の赤い髪が頬をくすぐった。名前の分からない甘い花の香りもした。
父の腕に抱き上げられたときの、石鹸と温かな布の匂いも蘇った。耳のそばで、父が笑っている。
――澪。パパを見るんだ。
「みてるよ……」
澪は重い瞼を持ち上げた。
雲の切れ間から、ほんの少しだけ星空が覗いていた。先ほどまで空を引き裂いていた稲妻とは違う、白く小さな光だった。
母は、目を閉じてはいけないと言っていた。
だから澪は、星が一つ見えるたびに数えた。
「ひとつ……ふたつ……」
三つ目を見つける前に、波が箱を持ち上げた。
次に目を開けたときには、どこまで数えたのか分からなくなっていた。もう一度最初から数えようとしても、星が滲み、いくつにも重なって見える。
「ちょっとだけ……ねるね」
父と母がそばにいるつもりで、澪は小さく断った。
「おきたら、かえるから……」
白い箱へ頬をつけると、耳のすぐ下から海の音がした。
昨日拾った巻き貝より、ずっと大きくて深い音だった。
やがて澪の指から力が抜け、握りしめていたロープが手の中を滑った。
それでも父の結び目だけはほどけず、白い箱と小さな身体をつないだまま、夜の海を流れていった。




