第6話 海の上で
澪の手首をつかんだのは、父だった。
身体ごと強く引かれ、澪の顔が水面へ飛び出した。けれど、ようやく吸い込んだ空気は、次の波と一緒に口の中へ押し戻された。塩辛い水が喉を焼き、何度咳をしても息が続かない。
「澪! パパにつかまれ!」
父の声はすぐ近くから聞こえているはずなのに、風と波に引き裂かれ、途切れ途切れにしか届かなかった。
澪は泣きながら腕を伸ばした。指先が父の首に触れ、濡れたシャツをつかむ。父は片腕で澪を胸に抱え込み、横倒しになった船から離れようと必死に水をかいた。
「ママは!? ママ、どこ!」
「いる! 絶対にいるから!」
父が叫んだ直後、三人の頭上から黒い壁のような波が崩れ落ちた。
澪は父の胸へ押しつけられ、そのまま水の中を転がされた。耳元で海が唸り、腕も脚もどちらへ動かせばよいのか分からない。父の身体から引き剥がされそうになり、澪は指が痛くなるほどシャツを握りしめた。
再び水面へ出たとき、少し離れたところに白い腕が見えた。
「澪!」
波間から、母の赤い髪が現れた。濡れた髪は海面へ長く広がり、顔の半分に張りついている。母は片腕をうまく動かせないらしく、それでも残った腕だけで必死に水をかいていた。
「ママ! ママ、こっち!」
澪は父の腕から身を乗り出した。
父も母の方へ泳ごうとしたが、波が来るたび身体を後ろへ押し戻された。近づいたと思った次の瞬間には、二人の間へ深い波の谷ができ、母の姿が完全に見えなくなる。
「手を伸ばせ!」
父が叫んだ。
母が伸ばした指を、父の指先が一度は滑った。母の顔が恐怖に歪み、澪は喉が裂けるほど大きな声で泣いた。
「ママをつかまえて! パパ、ママがいなくなっちゃう!」
「分かってる! 絶対に離さない!」
父はもう一度手を伸ばし、今度こそ母の手首をつかんだ。
三人がようやく一つにつながった瞬間にも、海は容赦なく身体を持ち上げ、叩き落とした。澪の顔へ何度も波がかかり、母の手がそのたびに父の腕から滑りかける。
「大丈夫よ、澪。ママはここにいるわ」
母はそう言いながら笑おうとした。しかし唇は青ざめ、頬の傷から流れた血が、雨と海水に混じって顎を伝っていた。
少し先に、白い収納箱のようなものが浮かんでいた。
船の中で澪が見つけた、蓋の固く閉じられた箱だった。波に翻弄されながらも沈まず、切れたロープを引きずっている。
「あれへ行く。澪を乗せるぞ!」
父は母の腕をつかんだまま、箱へ向かって泳いだ。
一つ波を越えるだけで、何度も水を飲んだ。父の息は荒く、喉の奥から苦しげな音が漏れている。それでも澪を抱く腕だけは決して緩めなかった。
ようやく箱へたどり着くと、父と母は澪の身体を持ち上げた。箱の表面は波に濡れて滑り、澪はすぐ海へ落ちそうになった。
「やだ! パパも乗って! ママも!」
「澪、よく聞け! これにつかまるんだ!」
「三人で乗るの! ひとりはやだ!」
澪は泣き叫び、父の首へしがみついた。父はその腕を無理に外そうとはせず、ほんの一瞬だけ、澪を強く抱きしめた。
「パパだって一緒にいたい」
耳元で聞こえた父の声は、泣いているように震えていた。
「でも、これには澪しか乗せられないんだ」
父は収納箱についたロープを救命胴衣へ通した。指から血が流れ、海水に濡れたロープは何度も滑った。それでも歯を食いしばり、震える指で結び目を作っていく。
母は箱の反対側から澪の背中を支えていた。波をかぶるたびに咳き込みながら、それでも手を離さない。
「Listen to me, amore mio(聞いて、私の愛しい子)」
母は英語に、澪がまだ少ししか知らないイタリア語を混ぜた。
「怖くても、この箱を離しては駄目。目を閉じないで。きっと誰かが見つけてくれるから」
「ママは? ママもくる?」
母の顔がくしゃりと歪んだ。
「行くわ。必ず澪のそばへ行く」
「いまきて! ママ、いま!」
澪は母の腕をつかもうとしたが、波が箱を突き上げ、指先が届かなかった。
父が箱の縁に腕をかけ、澪と額を合わせた。
「澪、パパを見るんだ」
「やだ! 帰る! 三人でおうちに帰る!」
「ああ。帰ろう。だから、今はこれにつかまっていろ」
「パパがいないと、かえれない!」
澪の叫びを聞いた父は、何かを堪えるように目を閉じた。それから濡れた頬へ口づけ、もう一度、澪の顔を見つめた。
「澪。愛してる」
父の手が離れた直後、巨大な波が横から襲いかかった。
白い箱が空へ放り上げられ、澪の身体がロープに引かれた。海へ落ちまいと取っ手へしがみつきながら、澪は父と母の名を叫んだ。
波の向こうで、父が片腕を上げていた。もう片方の腕で母を支え、箱を追おうと必死に水をかいている。
「パパ! ママ! はやく! はやくきて!」
父は何度も澪へ近づこうとした。
しかし波は、そのたびに父の身体を飲み込み、遠くへ吐き出した。母も父の腕につかまりながら手を伸ばしている。その指先は何度見えても、澪へ届く前に海の中へ消えた。
「ひとりにしないで! パパ、約束した! 離さないって言った!」
父が何かを叫び返した。
けれど、その声は雷にかき消された。
次の波が二人を完全に隠した。澪は箱の上から身を乗り出し、暗い海を必死に探した。
父の手も、母の赤い髪も、もうどこにも見えなかった。
「ママ! パパ! ごめんなさい、いい子にするから! もうお魚つかまえないから! だから、きて!」
澪は何度も何度も叫んだ。
喉が痛くなっても、声が掠れても、両親が返事をするまでやめようとは思わなかった。
けれど海は、父と母の声を返してくれなかった。
ただ荒れ狂う波だけが、泣き続ける澪と白い箱を、見知らぬ海の先へ運んでいった。




