第5話 離さないで
最初の雨粒は、澪の膝に落ちた。
丸く濃い染みが一つできたので、澪は指先で触れてみた。水は生ぬるく、すぐに肌の上を細く流れていく。
「雨だよ」
母へ教えた直後、二つ、三つと新しい染みが増えた。澪が数え終わるより早く、雨粒は白い船体を叩き始めた。
ぱらぱらという軽い音は、あっという間に激しくなった。空に大きな桶でもあり、それを誰かがひっくり返したかのように水が落ちてくる。風に押された雨は屋根の下まで吹き込み、澪の頬や耳を容赦なく打った。
「中へ入ろう」
父が澪を抱き上げ、船室へ向かった。
床が大きく揺れるたび、父の身体も左右へ振られた。けれど、澪を抱く腕だけは緩まない。母は濡れた手すりをつかみ、もう片方の手で父の服を握りながら後ろをついてきた。
船室の中は暗かった。窓を流れる雨で外が見えず、天井の照明だけが青白く灯っている。揺れるたび、棚の中で何かがぶつかり、扉の向こうから硬い音が響いた。
「パパ、こわい」
「大丈夫。パパがいる」
「ママも?」
「ママもいるわ。ここにいるから」
母が澪の濡れた頬を両手で包んだ。いつもは少し冷たい指が、今は父の手と同じくらい熱い。母の赤い髪は雨を吸って頬に張りつき、甘い花の香りも、潮と燃料の強い匂いにかき消されていた。
突然、窓の外が真っ白になった。
ほとんど同時に、何かが裂けるような音が空から落ちてきた。澪は悲鳴を上げ、父の首へしがみつく。音は胸の奥まで響き、船室の壁まで震わせた。
「やだ。おうち、かえる」
「ああ、帰るから。もう少しだけ頑張ろう」
父は澪の背中を何度も撫でた。
船長の声が聞こえ、父が顔を上げる。英語だったうえ、無線の雑音や雨音が混じり、澪には何を話しているのか分からなかった。ただ、父の眉間に深い皺が寄り、母が何度も聞き返している。
ホテルのある島は近づいているはずなのに、窓の向こうには何も見えなかった。灰色の水と白い泡がぶつかり合い、ときどき窓の高さまで波が持ち上がった。
母が棚からタオルを取り、澪の頭を覆った。濡れた服の上から抱きしめられると、母の心臓が速く打っているのが伝わってきた。
「ママ、いたい?」
「大丈夫よ」
「でも、どきどき、はやい」
母は答えず、タオル越しに澪の頭へ唇を押し当てた。
船が急に下へ落ちた。
身体が座席から浮き、腹の中まで持ち上がる。次の瞬間、底から突き上げるような衝撃があり、澪の歯がかちんと鳴った。父が澪と母をまとめて抱き寄せ、座席の背に身体を押しつける。
「ここにつかまれ!」
父の声は、これまで澪が一度も聞いたことのない大きさだった。
澪は言われたとおり、父の服を握った。濡れた布が指の中で滑るため、何度も握り直さなければならない。
「絶対に手を離すな。澪、パパを見ろ」
顔を上げると、父がすぐ近くにいた。髪から水を滴らせ、苦しそうに息をしながら、それでも澪に向かって笑おうとしている。
「離さないで」
澪が泣きながら言うと、父は強くうなずいた。
「絶対に離さない。約束する」
その言葉が終わらないうちに、船が右へ傾いた。
今度は戻らなかった。
固定されていたはずの荷物が外れ、床を滑って壁へぶつかる。母が澪の名前を叫び、父の腕がさらに強く身体へ食い込んだ。船室の外から、船長と乗員の怒鳴り声が聞こえる。
傾いた床を海水が流れてきた。最初は足首に触れるだけだったものが、次の波で膝まで押し寄せる。昨日の浅瀬で触れた海とはまるで違い、冷たく、重く、澪の身体をさらっていこうとした。
「いや! パパ、いや!」
また窓の外が白く光った。
直後、船の横腹を巨大な波が打ちつけた。窓の向こうが灰色の水で埋まり、船体が軋みながら、ゆっくり横倒しになっていく。
天井も床もなくなった。
澪には、そうとしか思えなかった。
壁に背中を打ちつけた痛みのあと、冷たい水が全身を包んだ。鼻と口から海水が入り、息の仕方が分からなくなる。上も下も見えず、父の服を握っていたはずの指には、何も残っていなかった。
暗い水の中で、澪は必死に手を伸ばした。
パパ。ママ。
声にしようとしても、口から出たのは小さな泡だけだった。
黄色い救命胴衣に引かれ、身体が水面へ向かって浮かび始める。それでも澪は、何も見えない海の中をかき回すように両手を動かした。
その手首を、誰かの大きな手がつかんだ。




