第4話 帰ろう
空が鳴ったあとも、しばらくは何も起こらなかった。
太陽は相変わらず眩しく、澪の肩や膝をじりじりと温めている。船の後ろには白い航跡が続き、母の赤い髪も明るい光を受けて輝いていた。
だから澪は、遠くに見えた灰色の線のことなど、すぐに忘れてしまった。
巻き貝に大きな海を見せ終えると、今度は船の中を探検したくなった。座席の下、細い通路の奥、白い扉の向こうなど、どこへ行こうとしても父の手が伸びてきて、襟や腰を捕まえられる。
「こら。勝手に開けるな」
「なんで?」
「船の道具が入ってるからだ」
「みたい」
「見ても面白くないぞ」
「みおが、きめるの」
もっともな反論をされ、父は返す言葉を失ったらしい。助けを求めるように母を見たが、母は知らないふりをして果物を食べていた。
「一緒に見るだけだからな」
父が根負けして扉を開けると、中には救命胴衣やロープ、工具箱などが隙間なく収められていた。棚の下には、蓋のついた白い収納箱も固定されている。
澪は期待していた宝物がなかったことに少しがっかりしながら、黄色い救命胴衣へ手を伸ばした。
「これ、なに?」
「海に落ちたとき、ぷかぷか浮くためのものだよ」
「みお、およげるもん」
「澪はまだ、浮き輪がないと泳げないだろ」
「おさかなは、これ、きないよ」
「魚は最初から海に住んでるからな」
澪は救命胴衣をしばらく眺めたあと、魚になる役には立たないと判断したらしく、興味を失った。
そのとき、船がゆっくりと大きく傾いた。
澪の身体が横へ流れ、父の脚にぶつかる。床を転がった空のコップが、乾いた音を立てながら通路の端まで滑っていった。
「おっと」
父がすぐに抱き上げたため、澪は転ばずに済んだ。けれど、さっきまで楽しかった上下の揺れとは違う。船の下から、大きなものに持ち上げられたような動きだった。
「いまの、もういっかい」
「これは遊びじゃないぞ」
父の声から笑いが消えていた。
澪は父の胸に抱かれたまま、操縦席の方を見た。船長は計器に顔を近づけ、何度も画面と海を見比べている。若い乗員も空になった食器を急いで片づけ、籠やコップが動かないよう留め具をかけ始めた。
大人たちが急に忙しくなった理由を、澪だけが知らなかった。
遠くにあった灰色の線は、いつの間にか太くなっていた。青い空の端から、濃い灰色の雲が染み出すように広がっている。雲の下では海の色まで暗く、太陽の光が届かなくなっていた。
風も変わった。先ほどまでは頬を撫でていたのに、今は濡れた匂いを含み、澪の服を強く引っ張ってくる。母が飛ばされそうになった帽子を押さえ、父のそばへ寄った。
「予報では、夕方までは晴れると言っていたでしょう?」
母は英語で船長に尋ねた。澪には言葉の全部は分からなかったが、母の声がいつもより硬いことは分かった。
「はい。出航前にも確認しました。しかし、この海域では小さな乱れが急に発達することがあります」
船長も英語で答え、すぐに無線へ手を伸ばした。
低い声と雑音が交互に流れ、聞き慣れない言葉がいくつも飛び交う。母は澪の腕に手を添え、父はその手を上から包んだ。
「パパ?」
「大丈夫だ」
「なにが?」
澪が尋ねると、父はほんの少し黙った。
「風が強くなりそうなんだ。今日はもう、ホテルへ帰ろう」
「まだ、おさかな、みてない」
「飛ぶ魚を見ただろ?」
「もっとみる」
「また今度な」
その「今度」が明日なのか、帰る前の別の日なのか、澪には分からなかった。ただ、父ならいつでも船に乗せてくれると思っていたので、強くは嫌がらなかった。
船長が進路を変えると、船体が大きな弧を描いた。正面に見えていた太陽が横へ移り、遠くに小さく霞んだ島が見える。
「あそこ、おうち?」
「そうよ。さっきまでいた島」
母が教えてくれたが、その声は風にちぎられ、澪の耳には半分しか届かなかった。
父は澪を座席へ座らせると、黄色い救命胴衣を持ってきた。
「おさかなじゃないのに、きるの?」
「ああ。今は魚じゃなくても着るんだ」
厚い布が身体の前で重なり、留め具の小さな音が続けて鳴った。脇の紐を締められると窮屈で、澪は嫌そうに肩を揺すった。
けれど父も母も笑ってくれなかった。
それが、暗くなり始めた海よりも、澪にはずっと怖かった。
進行方向から吹きつける風に逆らい、船は島を目指して速度を上げた。その背後では、灰色の雲が海の上を滑るように、音もなく距離を縮めていた。




