第3話 少しだけ変な風
船が島から離れるにつれて、海の色は少しずつ深くなっていった。
澪は座席に膝をつき、父に腰を支えてもらいながら船の後ろを覗き込んでいた。白く泡立つ航跡が二本、どこまでも長く伸びている。けれど、船が先へ進むほど、その道は波に崩されて消えていった。
「おふねのおみち、なくなっちゃうね」
「海には道が残らないんだよ」
「なんで?」
「なんでだろうなあ」
父が困ったように首を傾げると、澪も同じ方向へ首を傾げた。
「あなた、分からないなら適当なことを教えないで」
母が笑いながら、澪の帽子をかぶせ直した。風で何度もつばが持ち上がるため、顎の下の紐を少しだけきつく結び直す。
「あとで船長さんに聞きましょう。海のことなら、パパより詳しいはずよ」
「パパ、うみ、しらないの?」
「少しは知ってるぞ」
「おさかな、とれなかった」
「それは昨日の話だろ」
父が澪の脇腹をくすぐると、澪は甲高い声を上げて身をよじった。逃げようにも、揺れる船の上ではうまく立てない。結局、父の胸に背中を押しつけたまま捕まり、笑いすぎて息が苦しくなるまでくすぐられた。
「パパ、やだあ!」
口では嫌がりながらも、父の手が離れると、今度は澪の方からその太い腕へしがみついた。
父の手は、日に当たって温かかった。澪の胴を片腕だけで抱えられるほど大きく、指の付け根には硬いところがあった。そこを爪でかりかりと引っかいていると、母が冷たい飲み物の入ったコップを差し出してくる。
淡い黄色の果汁には、小さく切った果物が浮いていた。一口飲むと、舌の先に甘さが広がり、そのあとから柑橘の酸味が追いかけてくる。
「すっぱい」
「でも、もう一口飲むのでしょう?」
「のむ」
母の言ったとおり、澪は両手でコップを抱え直した。氷が縁に触れて、からん、と涼しい音を立てる。
そのとき、船の右手で水面が弾けた。
銀色の細長いものが海から飛び出し、広げたひれに光を受けながら、波の上を滑るように進んでいく。
「おさかな、とんだ!」
澪はコップを父へ押しつけ、身を乗り出した。一匹、二匹と続けて飛び出した魚は、空を飛んでいるように見えたかと思うと、すぐ青い水の中へ戻ってしまう。
「あれ、ほしい!」
「捕まえてどうするんだ?」
「いっしょに、とぶ」
「澪には羽がないだろ」
「おさかなも、ないよ」
「確かにそうだな」
父が妙に納得してしまい、母は呆れた顔をした。
澪は飛んだ魚がもう一度現れないかと、海面を探し続けた。目を凝らすと、海はただ青いだけではない。光が当たる場所には白や銀が混じり、船の影の下には濃い緑が沈んでいる。波の形も一つずつ違い、丸く膨らんだかと思えば、風に押されて先端が細く崩れた。
「ママ、うみ、いっぱい、いろあるね」
「そうね。澪にはいくつ見える?」
「えっと‥‥‥あおと、あおと、ちがうあお」
指を折って数えようとするが、どれも「あお」なので、途中から分からなくなった。
母は澪の隣へ腰を下ろし、同じ海を眺めた。日差しを受けた赤い髪が、細い炎のように風の中で揺れている。
「色には、たくさん名前があるのよ。いつか一緒に覚えましょうね」
「ぜんぶ?」
「全部は、ママにも無理かもしれないわ」
「じゃあ、みおがおしえる」
母は少し驚いたあと、目元を柔らかく細めた。
「楽しみにしているわ」
澪は母の髪へ手を伸ばした。指に巻きつけると、絹糸のようになめらかで、陽に温められた部分からは、昨日と同じ甘い花の香りがした。
不意に、髪が澪の指から強く引かれた。
船の速度は変わっていない。それなのに、さっきまで背中を押していた風が横から吹きつけ、帽子のつばを大きくめくり上げた。母が慌てて澪の帽子を押さえる。
「風、つよいね」
「少し変わったわね」
母はそう答えたが、声から笑みが消えていた。
澪はもう魚を探すのをやめ、風が来た方角を見た。そこにも同じ青い海が続いている。ただ、遠くの空と海が重なるあたりに、灰色の絵の具を細く引いたような線が見えた。
「むこう、よる?」
澪が指を差すと、父も振り返った。
「雲じゃないか?」
操縦席にいた船長が、同じ方角を見た。眩しさを避けるように片手を額へかざし、しばらく動かなかった。けれど澪の頬を撫でる風は、次の瞬間には少し弱くなった。
母の顔にも笑みが戻ったため、澪は灰色の線への興味を失った。鞄から昨日の巻き貝を取り出し、青い海へ向けて高く掲げる。
「ほら。おっきいうみだよ」
貝殻は何も答えなかった。
その代わり、どこか遠くで、空が低く唸ったような音がした。




