第2話 パパの「うめぇ」
翌朝、澪は母に髪を結んでもらいながら、何度も椅子の上で振り返った。
「ママ、おふね、もういる?」
「まだ逃げていないから、じっとして」
「おふね、にげるの?」
「澪がいつまでも動いていたら、待ちくたびれて逃げるかもしれないわね」
それを聞いた澪は、慌てて背筋を伸ばした。けれど、窓の向こうから船のエンジンらしい低い音が聞こえると、すぐに腰が浮く。
母は苦笑しながら、澪の柔らかな黒髪を二つに分けた。赤いリボンを結び終えると、その出来栄えを確かめるように左右を軽く引く。
「はい、できました」
「おふね、いく!」
澪は椅子から飛び降りたものの、入口まで行ったところで何かを思い出し、また駆け戻ってきた。昨夜から枕元に置いていた白い巻き貝を、小さな肩掛け鞄へ大切そうにしまう。
「それも連れていくのか?」
父に尋ねられ、澪は大きくうなずいた。
「うみ、みせるの」
「海から来た貝に?」
「このこ、ちいさいうみしか、しらないから」
貝殻の中に入っている海は、耳に当てなければ聞こえないほど小さい。もっと大きな海を見せてやらなければ可哀想だと、澪は本気で思っているらしい。
父は何か言いかけたが、結局、笑いながら澪の帽子をかぶせた。
桟橋までは、ホテルの小さな車で送ってもらった。昨日から何度か顔を合わせている支配人が自ら見送りに来て、父と英語で短い会話を交わす。船には白い制服の船長と、日に焼けた若い乗員が待っていた。
「おはようございます、澪さま」
乗員がしゃがんで手を差し出したが、澪はその手より先に、彼の後ろに浮かぶ船を見上げた。
真っ白な船体は朝日を照り返し、目が痛くなるほど眩しい。ホテルの窓から見えた船よりは小さいが、澪には家がそのまま海に浮いているように思えた。後ろの方には屋根のある座席が並び、青いクッションの上へ、新しいタオルが人数分きちんと畳まれている。
「これ、みおの?」
「今日はな」
父の答えを聞くと、澪は満足そうに胸を張った。船を一艘使うことが、普通なのか特別なのかなど、4歳の澪は考えもしない。
桟橋から船へ移る隙間を見た途端、澪の足が止まった。下には光を揺らす海があり、船は波に合わせてゆっくり上下している。
「だっこするか?」
「じぶんで、いく」
父の手を握り、澪は慎重に片足を伸ばした。船へ乗り移った瞬間、足元がふわりと沈み、驚いて両手で父の腕にしがみつく。
「うごいた!」
「船だからな」
怖さより面白さが勝ったらしい。澪はもう一度膝を曲げ、船と一緒に身体が上下する感覚を確かめた。
やがて桟橋が遠ざかると、陸から吹いていた甘い花の香りは薄くなり、代わりに塩気を含んだ風が頬を撫でた。船の左右で白い波が砕け、その音に混じって鳥の声が聞こえる。
澪は父と母の間に座り、帽子を押さえながら海を眺め続けた。
しばらくして、乗員が籠を運んできた。中には小さなパンや色とりどりの果物、焼き菓子が詰められている。朝食をほとんど食べずに部屋を飛び出した澪のため、母が用意してもらったものだった。
父は丸いパンを一つ取り、半分に割った。香ばしく焼かれた表面の内側には、柔らかな鶏肉と淡い緑色の葉、橙色のソースが挟まっている。
一口かじると、父の眉が嬉しそうに上がった。
「これ、うめぇな」
「おいしい、でしょ」
すぐに母が言い直した。
「澪が真似するでしょう。あなたの言葉は、すぐ覚えるんだから」
「うまいものを食べたときは、うめぇーでいいだろ」
「よくありません」
1人を交互に見ていた澪は、父の手にあるパンへ目を向けた。
「みおも」
「これは少し辛いかもしれないぞ」
「たべる」
父が辛そうなソースを避け、鶏肉の入った端を小さくちぎった。澪はそれを口へ入れ、ゆっくり噛む。焼いたパンの香りと、甘い肉汁が舌の上に広がった。
父が期待するように顔を覗き込み、母は嫌な予感がしたらしく唇を引き結んでいる。
澪はごくんと飲み込むと、覚えたばかりの言葉を、父と同じ調子で元気よく口にした。
「うめぇー!」
父が吹き出し、母は額に手を当てた。
「ほら、言ったでしょう!」
「発音まで完璧じゃないか。さすが俺の娘だ」
「褒めないで」
澪には、なぜ母が困っているのか分からなかった。ただ父が楽しそうなので、もう一度食べればまた喜んでくれるような気がした。
「パパ、もっと、うめぇちょうだい」
とうとう母まで笑い出した。
潮風の中に三人の笑い声が広がり、船の後ろへ長く伸びた白い航跡の上に、しばらく残っているように聞こえた。




