第1話 海が青かった日
海は、青い絵の具を何度も重ねたような色をしていた。
窓いっぱいに広がるそれを見つけた途端、4歳の澪は裸足のまま部屋を駆け出した。磨かれた床はひんやりとしていたが、そんなことを気にしている余裕はない。白いカーテンを両手で押しのけ、背伸びをしても、目の前に見えるのは空と海ばかりだった。
「パパ、見て! おっきい!」
「どれどれ」
背後から伸びてきた腕が、澪の身体を軽々と抱き上げた。さっきまで触れていた床が遠ざかり、代わりに父のシャツから、石鹸と日に焼けた布の匂いがした。
「ほんとだ。こんな大きな海、澪が見つけたのか?」
「みおが、みつけた!」
「それはすごいな。パパは全然気づかなかった」
父が大げさに驚いてみせるので、澪は得意になって胸を張った。飛行機を降りたときからずっと海はそこにあったのだが、4歳の澪にとって、自分が窓から見つけたものは自分の発見だった。
部屋の外には、屋根のついた広いテラスが続いていた。その先には白い砂浜があり、波が寄せるたび、細かな砂が陽の光を含んで銀色にきらめく。岸近くの海は透き通った薄緑で、少し遠くなると鮮やかな青、その向こうは底の見えない深い藍色へと変わっていた。
澪は父の腕の中で足をばたつかせた。
「おりる。おさかな、いるかもしれない」
「待ちなさい。裸足のまま外へ出るつもり?」
母の声に振り返ると、寝室から大きな帽子を手にした母が出てきた。肩より下まである赤い髪が、開いた窓から入る風に揺れている。真っ赤というより、蜂蜜に夕日の色を溶かしたような、明るく柔らかな赤だった。澪は父の腕から身を乗り出し、その髪を一房つかんだ。
「ママの、きらきら」
「Thank you。でも、引っ張らないでね」
「さんきゅー」
「それはママの台詞よ」
母が笑うと、澪も意味は分からないまま一緒に笑った。父まで笑い出したので、3人の声が高い天井にふわりと広がった。
入口の近くには、澪の小さなサンダルがきちんと揃えて置かれていた。荷物はいつの間にか寝室へ運ばれ、父がフロントで話していたはずの支配人は、冷たい果物と飲み物を用意すると静かに下がっている。けれど澪は、誰が荷物を運んだのかにも、この部屋だけがほかの建物から少し離れた場所にあることにも興味がなかった。
今は海の方が大事だった。
母にサンダルを履かせてもらい、つばの広い帽子をかぶせられる。顎の下で紐を結ばれるあいだも、澪の視線は砂浜の上を忙しく動いていた。
「あっ!」
波打ち際の浅瀬で、何かが光った。
「おさかな!」
「転ぶなよ」
父に手を握られ、澪は砂浜へ駆け下りた。乾いた砂はさらさらとして足を取られたが、海水に濡れた場所まで来ると、今度は足の裏にぺたりと張りついた。
小さな魚の群れが、澪の影に驚いて一斉に向きを変える。銀色の身体が水の中で光り、ひとつの大きな生き物のように右へ左へ揺れた。
「つかまえる!」
「それは難しいんじゃないかな」
「できるもん」
澪は父の手を離し、両手を水に突っ込んだ。もちろん魚は指の間をするりと抜け、代わりにすくえたのは透明な海水だけだった。波が足首を洗うたび、冷たさとくすぐったさが一緒に押し寄せる。
何度挑んでも捕まらない。それでも澪は諦めず、濡れたスカートも気にせず魚を追いかけた。
「ねえ、あなた。見ているだけじゃなくて止めて。全部濡れてしまうわ」
「楽しそうだから、まあいいだろ?」
「着替えさせるのは誰だと思っているの?」
「俺がやります」
「その言葉、覚えておくから」
2人の会話は、澪の頭の上を風のように通り過ぎた。日本語の間に、ときどき英語が混じる。母が早口になると、父も英語で返した。どちらの言葉でも、声を聞けば二人が喧嘩していないことだけは澪にも分かった。やがて澪は魚を諦め、砂の上にしゃがみ込んだ。白い巻き貝を拾い、耳に当ててみる。
ごう、ごう、と遠い音がした。
「うみが、いる」
澪が囁くと、父は隣にしゃがみ、貝を持つ小さな手ごと包み込んだ。
「そうだな。海が入ってるみたいだ」
母も反対側に膝をつき、帽子からはみ出した澪の髪を耳へかけた。その指先は日差しの中でも少し冷たく、甘い花の香りがした。
父の大きな手と、母の細い指。その間で貝殻を握りしめながら、澪はもう一度、耳の奥の波音に聞き入った。
この日のことを、十年後の澪はほとんど覚えていない。
けれど、青い海を前にした父の笑い声も、頬をくすぐった母の赤い髪も、名前の分からない甘い花の香りも、消えてなくなったわけではなかった。
幼い澪の奥深くで、それらはまだ、陽の光を浴びた貝殻のように眠っていだけなんだ。




