第14話 テヴァの母
澪が入口の外を指さすと、テヴァはすぐにうなずいた。
「海だろ?」
言葉は通じなくても、潮の匂いを追うように顔を上げた澪を見れば、行きたい場所は分かった。
しかし、マレアは首を横へ振った。
澪の額へ手を当て、まだ塞がっていない膝の傷と、青い痕の残る脇腹を順番に指す。それから寝台を示し、両手を頬へ当てて眠る仕草をした。
「やだ。みお、うみいく」
澪も負けずに首を振った。
「ママとパパ、まってるの」
海を指し、自分の胸を指したあと、両腕で誰かを抱きしめる仕草をする。入口へ歩こうとしたものの、三歩目で膝から力が抜けた。
テヴァが慌てて身体を支える。
マレアは澪を寝台へ戻そうとしたが、小柄な老女の腕では、力の入らない子どもの身体を持ち上げることも難しかった。脇腹を圧迫しないよう支えながら、どうにか寝台の縁へ座らせる。
テヴァはマレアと澪を交互に見たあと、何かを思いついたように立ち上がった。
「母さんを呼んでくる!」
返事を待たず、入口から飛び出していく。
テヴァの家は、マレアの家から坂道を少し下ったところにあった。
母は庭先で魚をさばいていた。長い黒髪を高い位置で束ね、日に焼けた腕には水と銀色の鱗が光っている。テヴァより頭一つ以上背が高く、魚籠や薪を一人で担ぐことにも慣れていた。
「母さん、来て! ミーオが海へ行きたがってる」
「海へ? まだ熱が下がったばかりでしょう?」
「歩けないけど、どうしても行きたいみたいなんだ。マレアじゃ抱き上げられない」
母は手を洗い、濡れた指を腰の布で拭った。
「お父さんも兄さんも、昼までは戻らないわよ」
父と年上の兄は、夜明け前から沖へ漁に出ている。普段なら荷車を引くのは二人の役目だったが、帰りを待っていれば昼を過ぎてしまう。
テヴァの母は息子の切羽詰まった顔を見て、魚へ葉をかぶせた。
「分かったわ。荷車を出して」
二人がマレアの家へ戻ると、澪は寝台の上で桃色の筋が入った巻き貝を抱えていた。
見知らぬ女性が入ってきたため、澪の身体が強張る。
テヴァの母はすぐには近づかなかった。少し離れた場所へしゃがみ、自分の胸を指さした。
「ナイラ」
澪は警戒したまま、その指先と顔を見比べた。
「ナ、イラ?」
女性がうなずき、もう一度胸へ手を当てる。
「ナイラ」
次にテヴァを指さし、その頭を撫でた。
「テヴァ」
テヴァも自分を指さす。
「テヴァ。母さん、ナイラ」
最後の言葉は分からなかったが、二人が並んだ顔を見ていると、目元や笑ったときの口元がよく似ていた。
「テヴァの、ママ?」
澪が尋ねると、意味を知らないはずのナイラが優しく微笑んだ。
ナイラには二人の息子がいる。上の子が生まれたときも、テヴァを授かったときも嬉しかったが、娘の髪を結ったり、小さな服を選んだりする暮らしに憧れたことがなかったわけではない。
けれど今は、目の前にいる傷だらけの少女を、そんな憧れと重ねようとは思わなかった。澪は誰かの代わりではない。
海で家族を失い、知らない島で必死に生きようとしている、一人の小さな子どもだった。
ナイラは澪の前で両腕を広げ、抱き上げてもよいかと尋ねるように首を傾げた。
澪はすぐには答えなかった。
テヴァが母の腕へ自分から飛び込み、抱き上げられる様子を見せる。六歳の息子を持ち上げたナイラが、重そうに顔をしかめてみせると、澪の口元がわずかに緩んだ。
テヴァが床へ下り、今度は澪へ両手を差し出した。
澪は巻き貝を胸へ抱えたまま、恐る恐るうなずいた。
ナイラの腕は父ほど大きくなかったが、温かく、潮と日に干した布の匂いがした。脇腹へ触れないよう丁寧に抱き上げられると、澪は驚くほど軽かった。
外には、厚い敷物を重ねた二輪の荷車が用意されていた。
ナイラが澪を荷台へ座らせ、マレアが傷へ負担がかからないよう背中と腰に丸めた布を当てる。テヴァは日差しを遮る大きな布を広げ、細い棒へ結びつけた。
支度を終えると、ナイラが荷車を引き、マレアは澪の隣へ腰を下ろした。テヴァは落ちかけた巻き貝を拾い、澪の手へ戻してから荷車の横を歩く。
木々の間を抜けるにつれ、潮の匂いが濃くなっていった。
やがて道の先から木陰が消え、青い光が差し込んでくる。
澪は荷車の上で身を起こした。
視界いっぱいに広がる海を見た途端、巻き貝を握る小さな手に力がこもった。




