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48話 優しい策略

「あ! ひ、光ちゃん」


 目を覚ました私を見るなり、凜ちゃんがほっと胸を撫で下ろす。その双眸には、今にもこぼれ落ちそうな涙が滲んでいた。


 この学院に来てから、まだ一ヶ月も経っていない。


 それなのに、この病室の天井や白いカーテン、消毒液の匂いまでもが、妙に見慣れたものになっていた。


 もはや第二の実家と言ってしまってもいいくらいだ。


 窓の外へ目を向けると、空はすでに薄闇に包まれ、一日の終わりを静かに告げている。


 全身の傷は完治してるものの、しかし失った血液まで元通りになるわけではない。。体は鉛のように重く、起き上がるだけでもひどく億劫だった


「凜ちゃん。私、どのくらい気を失ってたの?」


「あ、えっと……ろ、六時間くらいかな」


 私と立花さんが戦ったのは、十三時半。そこから六時間もの間、気を失っていたのだとしたら、今は、十七時半。


 あと三十分で師匠との鍛錬の時間だ。


 行かないと。


 師匠は私との鍛錬を大切にしている。そのひと時を台無しにするようなことはしたくない。

 それに、眠っていた時間の遅れを、少しでも強さで取り返さなければ、雫さんとの差は開いていく一方だ。


 そう自分に言い聞かせると、私は全身を覆う倦怠感に抗うように身体へ鞭を打ち、無理やり上体を起こした。


「ひ、光ちゃん。もうちょっと寝てた方がいいよ」


「あはは。もう大丈夫だから気にしないで。それに、もうすぐ師匠との鍛錬があるから――あっ……」


 貧血の状態でいきなり上体を起こしたせいだろう。


 ぐらり、と視界が揺れ、一瞬だけ意識が遠のく。倒れそうになる身体を、私はどうにか踏みとどまった。


「神崎さん。無理は身体に、毒、ですよ」


「し、師匠!?」


「あ、嵐山さん!?」


 聞き慣れた穏やかな声に振り向くと、病室の入り口には師匠が静かに立っていた。私と凜ちゃんは、揃って目を丸くする。


「ほら、神崎さん。病院食を持ってきましたから食べてください」


 師匠は、私たちの驚いた様子など意にも介さず、料理の載ったトレイを私の前にあるテーブルへ静かに置いた。


「私が神崎さんを看てますから水無月さんは何か食べてきてください」


「え? えっと……わ、わたしは別に食べなくても……」


 煮え切らない返事を聞いた師匠は、「はぁ……」と深々とため息を吐く。


「せっかく四季が気を遣ってあげたのに……もういいです。では、単刀直入に言います」


 師匠は凜ちゃんの体全体を見渡すと、


「水無月さん。汗臭いので、お風呂に入ってきてください」


「く、臭っ!?」


 あまりにも遠慮のない物言いに、凜ちゃんは肩をびくりと震わせ、その場で固まってしまう。


「はい。臭いです。なので速やかにお風呂に入ることをお勧めします。『神崎さん』に臭いと思われたいなら別にいいですけど」


「っ!?」

 

 私の名前が出た瞬間に、凜ちゃんの体は大きく弾み、右手で自身のジャージの胸元を引っ張る。

 そして、くんくんと犬のよう嗅ぐと、「ううぅ……た、確かに、く、臭いかも……」と表情を曇らせた。


 それでも私の傍を離れたくないのだろう。凜ちゃんは私と自分の体へ何度も視線を行き来させ、どうするべきか迷うように唇をきゅっと噛んだ。


「え、えっと。ひ、光ちゃん。わ、わたし、お風呂入ってくるから。えっと、その……す、少しの間、嵐山さんに看てもらって。ほ、本当にご、ごめんね。い、急いで戻ってくるから!」


 しばらく葛藤した末、凜ちゃんは名残惜しそうに私を見つめ、お風呂へ向かう決心をした。


「あ、ちょっと待ってください」


 扉に手をかけた凜ちゃんに師匠はストップをかけた。振り返った凜ちゃんは眉間に皺(しわ)を寄せ、訝しげに師匠を見つめる。


「な、何、かな?」


「神崎さん。それだけじゃ足りませんよね?」


「え?」


「足りないようなので、おにぎり二つと後は、クッキー的なお菓子を買ってきてください」


 私が口を開くよりも早く、師匠は当然のように凜ちゃんへお使いを頼んだ。


「し、師匠!? わ、私、何も――むぐっ!」


 反論しようとした瞬間、師匠の手が私の口を塞ぐ。


「た・り・ま・せ・ん・よ・ね!」


 一語一語に重圧を乗せるような凄みのある声音。


 有無を言わせないその迫力に、私は本能的に逆らえず、口を塞がれたまま激しくうんうんと首を縦に振る。


「あ、う、うん。わ、分かった、よ。ひ、光ちゃん。他にほ、欲しいものある?」


「あ、ええっと……だ、大丈夫」


 私の返事を聞くと、凜ちゃんは「わ、分かった」と小さく頷き、慌ただしく病室を後にした。


「な、なんで師匠は凜ちゃんにあんなお使いを頼んだんですか? それに、私まで強引に肯定させて……何を考えてるんですか?」


 師匠は凜ちゃんの去って行った扉の方角に視線を向けたまま口を開く。


「水無月さんはあなたのことになると周りが見えなくなりますから。きっとご飯も食べずにあなたの体調が良くなるまで、ずっと傍でつきそう、そう思いました。」


 その声音には凜ちゃんの献身(けんしん)ぶりに半ば呆れつつも、彼女を案じる優しさが滲んでいた。


 確かに凜ちゃんの献身ぶりを鑑(かんが)みれば、自分のことなど後回しにして、私の容体が落ち着くまで付きっきりで看病し続けるだろう。

 

 実際、師匠に食事を勧められたときも、「わ、わたしは別に食べなくても……」と遠慮していた。

 あの反応は、私を優先して食事を抜くつもりだったのだろうと思う。師匠の見立ては、おそらく間違っていない。


 師匠は小さく「はあ」とため息をつき、どこか困ったように肩をすくめると、ゆっくりと私の方へ向き直った。


「水無月さんは神崎さんのことを愛してやまないらしいので、その想いを少しだけ利用させていただきました」


「あ、もしかして、匂いを指摘したのって」


 師匠は私の言葉に「はい」と頷いた。


「水無月さんは訓練が終わると、シャワーも浴びずに真っ先にあなたのもとへ駆けつけていました。それを知っていたので、あなたの前で体臭を指摘すれば、『臭いと思われたくない』という気持ちから、さすがに一度はあなたの傍を離れるだろうと考えたのです」


 師匠はその後に肩をすくませながら「ただ……」と言葉を続ける。


「ちょっと、危なかったですがね。まさか、あそこであれほど迷われるとは思っていませんでしたが」


 その表情は呆れているというより、水無月さんの一途さを改めて思い知らされた、と言いたげだった。


「ここからは神崎さんの疑問についてですが、四季は、水無月さんに『食事を済ませてきてください』と伝えたところで、あなたのことが気掛かりで、ろくに食べもせず戻ってくるだろうと考えました」


 確かに、さっきのやり取りを思い返しても、凜ちゃんにとって食事は自分の中で優先順位の低いものだった。私の傍にいることのほうが、よほど大切なのだ。


 だからこそ、たとえ食事を勧められても、私のことが気掛かりで、ろくに食べもせず戻ってきてしまう。

 そして、「ちゃんと食べてきたから大丈夫だよ」と、何事もなかったように微笑み、私を安心させようと誤魔化すのだろう。そんな姿が容易く目に浮かぶ。


「そこで、あのお使いです」


 びしりと師匠は人差し指を伸ばす。


「神崎さんが『これを買ってきてほしい』と頼めば、水無月さんはその願いを何よりも優先します。あなたなら尚更です」


 そこまで聞いて、私はようやく師匠の真意を理解した。


「あ……もしかして、私に何か買ってきてって頼んだのは、私のためじゃなくて……凜ちゃんのため、だったんですか?」


 師匠は私の問いに、「ええ、そうです」と頷く。


「あれは、いわば水無月さんにきちんと食事を摂ってもらうためのお使いです。神崎さんだって、食事をしている姿を見られれば安心でしょう?」


「もちろんです」


「な・の・で」


 師匠はぐっと身を乗り出し、私の目の前へ人差し指を突きつけた。


「神崎さんは、水無月さんが買ってきたものを絶対に食べてはいけませんよ! 絶対に、です」


「わ、分かりました」


 その気迫に押され、私は思わず背筋を伸ばして師匠の忠告に頷く。師匠はそれを見て「よろしい」と一言だけ残し、私から顔を離した。


「では、神崎さんも、ちゃっちゃと料理を食べてください」


「えっと、師匠……」


「なんですか?」


「今日の鍛錬は、やっぱり中止……ですか?」


「そんなの当たり前ですよ。ご自身の状態を見れば分かるでしょう。無駄口を叩いていないで、さっさと食べてください」


「……そう、ですよね」


 分かっていた。


 上体を起こすだけで立ち眩みがする今の私に、まともな鍛錬などできるはずがない。


 そんなことは、誰よりも自分が一番よく分かっている。


 それでも、胸の奥では「強くなりたい」という想いが燻(くすぶ)り続けていた。


 そして何より、師匠が大切にしてくれている鍛錬の時間を、私のせいで潰してしまうことが申し訳なくて仕方なかった。

 それでも、この身体では何一つできない。悔しくても、もどかしくても、その現実を受け入れるしかなかった。


「師匠……ごめんなさい」


「なんですか、藪(やぶ)から棒に」


「だって……師匠は私との鍛錬の時間を大切にしてくれているのに、それを無駄にしてしまって……」


 師匠は小さく息をつくと、呆れたように肩をすくめた。


「別に、あなたの責任ではありません。今は余計なことを考えず、さっさと食べてください。冷めたら、せっかくの料理が台無しですし、何より作ってくれた人に失礼です」


「……そうですね。いただきます」


 師匠に促され、私は箸を取り、料理に口を付ける。優しい味がして、張り詰めていた心も、その温もりとともに少しずつほどけていくような気がした。

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