36話 覚悟の灯
「ふう~ もう夜かあ」
私は刀を振り下ろすのを止めて、訓練所から覗き込む満月を見て、夜を自覚する。
あの後、臼井先輩と別れた私は、丁度、三限目の授業が終わった凜ちゃんと合流。
凜ちゃんも私の時と同様、初任務でお世話になる先輩たちから親睦を深める連絡が来ており、その時間まで私たちは一緒に過ごしていた。
凜ちゃんは、まあ、人付き合いが得意な方ではないため、親睦会の時間までずっとそわそわしていたが。
凜ちゃんと別れた後は、訓練所へと赴き、強さを磨くことに専念。
実は師匠も、昨日、私と同じで初任務だった。今もおそらく、休養日を満喫しているに違いない。
昨日、私が初任務を終えてヘリポートに着いたときに、たまたま、任務終わりの師匠の姿を見かけた。
私は無事に生還してくれたことに、自分が生還した時よりも、安堵を浮かべていた。
師匠に教えを乞いたいのは山々だが、休養日なこともあるし、初任務で疲労があるだろうと思った私は一人で鍛錬をすることに決め、せこせこと、今の今まで研鑽を磨いていた。
雫さんがいつ私にアプローチを仕掛けてくるのかは分からない。だが、流石に今日ではないだろう。
それに、一度心を空っぽにして、ちゃんと自分の気持ちと向き合いたく、私は懸命に鍛錬に打ち込んでいた。
運動で汗を流したおかげか、頭の中を覆っていた靄も少し晴れた気がする。
高鳴る胸の鼓動は収まらないままでも、少なくとも今は、落ち着いて考えられそうだった。
――ぐううう~。
胃から魂の嘆きが。
「その前にちょっと、お腹を満たそう」
私は、自分の気持ちと向かい合う前に、お腹が空いた~という胃のわがままに付き合うことにする。
刀を鞘に抑め、私は準備を整えると、疲れ切った足を動かして訓練所から去って行く。
「今日の夕飯は何食べようかな~」
そんな呑気な言葉を零し、私は空腹を宥めるようにお腹をさすりながら、訓練所の長い廊下を気楽なままにのんびりと歩いていた。
そんなのほほんとした思考に浸っていると、正面の奥から――こつ、こつ、と規則正しい足音が私の耳に響く。
じゃっかん天井方向に視線を向けていた私は、その音につられて、ゆっくりと視線を正面に――
「……光ちゃん」
「しず、くさん……」
雫さんに遭遇した私は胃の機嫌を取ることも忘れ、正面の人物にただただ意識を割かれた。
――これは何の因果だろうか。
この学院にはたくさんの生徒がいる。
にもかかわらず、どうして、よりにもよって雫さんと出会うのだろう。
この状況じゃなければ、私は、きっと喜んでいた。
運命に感謝していた。
憧れの人と少しでも長く言葉を交わせることに胸を躍らせ、緊張しながらも必死に話題を探し、その時間が終わってほしくないと、心のどこかで願っていたはずだ。
そんな相手だった。
そんな相手だからこそ。
雫さんに対して抱いたこの感情は、ひどく皮肉だった。
私が最も会いたかった人は。
今の状況に限っては、最も”会いたくない”人だった。
まだ、私は自分自身の気持ちに向かっていない。何もできていない。何も定まっていない。
勇気も覚悟も、何一つとして、持ち合わせていない。
このまま、雫さんが何も言わず、私を素通りしてくれることを願うばかりなのだが、そんな私の浅はかな願いは儚く砕け散る。
「ちょうどいいわ」
雫さんのちょうどいい、という言葉に、私の心臓は大きく跳ねた。
雫さんは、いつかの時と同じ、真っ黒の憎悪の瞳を宿したまま、こちらを見下ろしながら口を開く。
「明後日、日曜日。私は午前中にこの訓練所を貸し切りにしている。そこで光ちゃんを待つ。流石に今回は大々的にせず、二人っきりで、あなたと戦う。条件は前回同様で、ね」
雫さんは眼差しを鋭くさせて、私を射抜きながら、右手をぎゅっと爪が食い込むほどに強く、握りしめる。
「今度こそ、必ず、絶対に、あなたの憧れを潰す……!」
全ての憎悪を煮詰めたような声だった。
低く。
重く。
聞いてるだけで胸の奥が冷えていく。
雫さんは私と出会う前から憧れを憎み、今もその憎しみは健在なのは御覧の通りだ。
もし、ここで私が引いたら、雫さんは来年も同じ催しを開催し、自分に憧れてきた人を絶望に叩き落すのだろう。
そして、反町先輩も臼井先輩もまた、その凄惨な悲劇を目にして、また罪を積み重ねる。
この悪夢に終止符を打つのは私が絶望に堕ちなければいい。それだけだ。
それはずっと変わらない。
正直、この場で気持ちを定める必要はない。
雫さんが提示した日曜日まで、あと一日ちょっとある。
その時までに、自分としっかり向き合い覚悟を形成していけばいい。
でも、私は、それまでに覚悟を決めれる未来が見えなかった。いや、そもそも自分で覚悟を決める、自分を想像できなかった。
自分の力だけで一歩を踏み出し、自分の意思で覚悟を定める。
そんな当たり前のことが、今の私には途方もなく難しく思えた。
誰かに強引にでも背中を押してもらえれば、覚悟を定められるというもの。
でも、それは臼井先輩から禁じられているため、私一人でどうにかする他ない。
私は足が竦みそうになるのを堪えながら、ふと、もう一度、確かめるように雫さんの瞳を覗き込んだ。
そこにあるのは、何度見ても変わらない、憎悪に塗り潰された黒。
反町先輩は言っていた。
雫さんは誰かの憧れを絶望へ突き落とすたび、その表情を苦痛に歪めているのだと。
もしあの話を聞いていなければ、私は今もこの瞳をただの憎悪だと思っていただろう。
けれど――今は違った。
黒一色に見えたその瞳の奥に、私は見つけてしまった。
苦しみを。
悲しみを。
誰にも届かない悲鳴のようなものを。
そして、それを見た瞬間だった。
私の胸の奥から、抑えきれない激情が溢れ出した。
――助けたい。
そんな綺麗な言葉では足りない。
――手を伸ばしたい。
――救いたい。
そうしたいと、どうしようもなく願ってしまった。
そして、同時に思ってしまった。
――雫さんに、そのような瞳は似合わない。
と。
命を救ってくれた、あの日の雫さんを私は思い出す。
私を抱きかかえていた時に見せた、慈愛に満ちた眼差し。
私の不安を和らげるように頭を撫でてくれた時に見せた。優しい眼差し。
私から離れ、ゴーストへと向かう直前に見せた、揺るぎない毅然の眼差し。
あの日見せた雫さんの瞳はどれもが眩しかった。
私の心に焼き付いて離れないほどの、強くて優しい眩しさが。
だからこそ――。
今、目の前にある深い闇は、あまりにも雫さんらしくなかった。
それはきっと、私のエゴだ。
勝手に憧れて。
勝手に理想を抱いて。
勝手に失望したくないだけの、救いようのない身勝手さだ。
でも、それでも、やっぱり、雫さんにはそんな瞳は似合わないと思ってしまったのだ。
――そう、思ってしまったのだ。
私の心は、未だに一歩踏み出すのは怖がっていて、勇気もなくて、覚悟だってまだ成ってない。
なのに、胸の奥で暴れ続ける衝動は、そんな理屈も恐怖も、すべて押し流していく。
「それじゃあね、光ちゃん」
雫さんは私に言いたいことを伝えると、何も言わない私の横を素通りした。
こつ、こつ、と雫さんの奏でるローファの音は、だんだんと遠ざかり私の耳に届く振動さえも弱弱しく、儚くなっていく。
「雫さん!」
気づけば、私は雫さんの名前を叫びながら、振り返っていた。
その呼び声に雫さんは踵を返す足を止めて、顔だけをこちらに向ける。
雫さんの背後では訓練所のグラウンドを照らすライトが白く輝き、その逆光によって雫さんの姿は黒いシルエットとなって浮かび上がっていた。
「怖くても、届かなくても……それでも私は、あなたに憧れ続けます! 日曜日の戦いで、必ず証明してみせます!」
私は誓いを立てるようにぐっと両手で握り拳を作る。
その言葉は、誰かに向けたものではなく、自分自身に刻みつけるための覚悟だった。
雫さんの返答はなく、コツコツと足音を奏でながら、グラウンドへと身を投げ出していき、シルエットは、光に包まれていった。
私は胸の奥に灯った小さな覚悟が、消えてしまわないように、その温もりを静かに抱き続けた。




