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12話 師匠

「え……?」


 頬に走った衝撃はあまりに唐突で、痛みよりも先に、現実感のほうが揺らいだ。


 ぶたれたという事実が、どこか遠い出来事のようにぼやけている。だが、遅れて滲み出す熱が、それを否応なく引き戻す。


 じん、とした痛みが、ここにあるのは夢ではないと告げていた。


 私は右頬に手を添え、痛みの熱を冷ましながら、わずかに息を整える。


「尊厳を四季に委ねるということは、あなたに非がなくとも、四季の機嫌ひとつで、このような理不尽が下されるということです。あなたの意思とは無関係に、唐突に」


 声はあくまで静かだった。だが、その静けさの底に沈んでいるものは、先ほどの一撃よりも、なお深く、重く、逃れようのない質量を帯びていた。


「このような理不尽がこれから先、日常として繰り返されるかもしれません。今、身をもって感じているこの不条理が、耐え難いと感じるのなら、撤回を勧めます」


 わずかな間が落ちる。


 言葉と沈黙のあいだに、見えない天秤(てんびん)のようなものが揺れていた。


「……これが最後です。本当に、よろしいのですか?」


 無慈悲な一撃に、心は大きく揺らいだ。


 理屈よりも先に、本能が逃げ道を探し始める。


 その隙間に差し込むようにして、嵐山さんは、尊厳を手放すということの冷酷さを、容赦なく刻み、私を退路へと誘導していく。


 尊厳を失うことで自分に降りかかるものを、彼女は最も分かりやすい形――暴力という、誰もが理解できる非人道で示した。


 数十秒が過ぎても、頬の奥ではじんじんと鈍い痛みが脈打ち続けている。

 今はまだ、彼女が完全に私の願いを受け入れたわけではないので、それ以上は何も起こらない。


 だが、もしこの先を踏み越えれば、その保証はどこにもない。


 暴力はほんの入口に過ぎずその先には、言葉にしきれない別の理不尽が待ち受けて別の角度から私の心を抉るかもしれない。


 それもこれも全て、嵐山さんの機嫌次第で運命が決まる。決まってしまう。


 ただ「はい」と肯くだけで、それらすべてが日常として降りかかる、可能性が秘めている。


 想像しただけで、身体がかすかに震えた。


 ここで引き返せば、私はいつまでたっても周囲との差は縮まらず、それでいて、憧れには決して届かなくなってしまうだろう。


 この学院を出れば、私はただの一般人に戻る。


 その先に、憧れへと続く道は残されていない。


 なのであれば、私は今、全てをかけてまでそのわずかな光に手を伸ばすのがいいのではないか?


 嵐山さんに教わったからって必ずしも憧れに届くという保証はない。


 そこあるのは可能性だけ。


 ――でも、それでも、少しでも可能性が秘めているならば、私はその可能性に全てをかけたい!


「撤回しません。強くなれるなら……憧れに届く可能性があるなら、私は――尊厳を捨てる覚悟です!」


 言い切ったあとも、視線だけは逸らさなかった。


 嵐山さんの瞳が、ゆらりと不規則に揺れた。


 内に沈めていた何かが、わずかに波立ったようにも見える。


 それと重なるように、左手が静かに持ち上がり、導かれるように右手首のミサンガへと触れると、指先で、そっと優しく撫でる。


 ためらいにも似たその動きは、すぐには言葉にならない感情をなぞっている気がした。

 

「……神崎さんは、おかしな人です。ただ、強さを求めるだけ、いや、違いますね。憧れのために全てを捨てるなんて、本当に意味が分かりません。狂っています」


 とつとつと零す言葉には先程のような冷淡さは失われ、代わりに、穏やさが押し出されていた。


 剣呑だった顔つきは、少しだけ柔和な表情になっていた。


「神崎さんの覚悟を試すとはいえ、いきなり暴力を振って申し訳ありませんでした」


「い、いえ! 私も意味深く理解してないで、軽率な頼みごとをしてしまったので、む、むしろ、喝を頂いてありがとうございます!」


「くふふ。本当に神崎さんはおかしな人です。叩いた四季の非を(とが)めず、それどころか、叩かれたことまでも自分の非に対する鉄槌のように受け止めてしまうなんて」


 嵐山さんはわずかに口元を緩めながら、そう零した。


「……わかりました。神崎さんの頼みごとを聞き入れましょう」


「ほんとですか! ありがとうございます!」


 嵐山さんから見事に欲しい言葉を聞くことが出来た私は、歓喜に打ちひしがれる。


「それと、今回は非道な行いをしてしまったこちらに非があるので。尊厳云々(そんげんうんぬん)は無しで、あなたの頼みごとを全面的に受け入れます」


 その言葉を聞いたとき、ハッとした。


 そういえば、尊厳云々の話をすっかり忘れていた。


 もし嵐山さんが今それを口にしなければ、この喜びの最中に、思いもよらぬ理不尽が私に降りかかっていたかもしれない。


 目の前のことに意識を奪われ、肝心な部分を見落とす――昔からの悪い癖だ。


 これを機に、少しでも改めなければと、心の中で強く言い聞かせる。


「一生懸命頑張りますので、びしびしと厳しく指導のほどよろしくお願いします――《《師匠》》!」


「し、しょ、う?」


 しまった、と思ったときにはもう遅い。


 思わず口をついて出た呼び名に、嵐山さんは戸惑いを隠せない様子だった。


「ああ、すいません! 今のは、その、言葉の綾というか……! 嵐山さんに指導していただいたせいか、なんだか弟子になった気分になってしまって……。次からは、ちゃんとお名前でお呼びしますので!」

 

 私は慌てて取り繕う。


 これまで名前で呼ぶ機会がなかったこともあり、敬語でのやり取りが続いていたせいか、いつの間にか師弟(してい)のような関係だと錯覚してしまっていたらしい。


 慌てふためく私をよそに、嵐山さんはふっと柔らかな笑みを浮かべた。


 その表情はどこか懐かしさを帯びていて、ほんの一瞬、遠い記憶に思いを()せているようにも見える。


「嵐山さん?」


 思わず声をかけると、嵐山さんは、はっと我に返ったように瞬きをし、浮かべていた笑みを静かに引っ込め、小さく咳払いをひとつ。


 それから、どこか落ち着かない様子で視線をちらちらとさせながら、こちらを見つめてくる。


「もし……よろしければ、ですが。今後も四季のことを師匠と呼んでいただけますか? その……神崎さんが、嫌でなければ……」


 言葉の端々に、かすかなためらいが滲んでいた。


 ――きゃわわわわっ……!


 嵐山さんは、言動の一つひとつに隙がなく、常に冷静沈着。


 その印象があまりにも強く根付いているせいか、今こうして見せる控えめな遠慮や、わずかな照れが混じった仕草は意外性が伴い、そのギャップが私の心の中を萌えで埋め尽くす。


「全然嫌なんかじゃありませんよ! 分かりました。では、今後とも”師匠”と呼ばせていただきますね!」


「はい、ありがとうございます。神崎さん」


 こうして、私は嵐山さん――もとい、師匠に鍛錬を施してもらえることが決定し、また一歩、私は憧れに近づいたのだった。

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