天皇の『人間宣言』
朝の光が、御簾を淡く透かしていた。
内裏の空気は静かだ。だが、その静けさの奥には、確かに“国の中心”が息づいている。
稀仁――四州近衛家当主となった私は、小さく息を吐いた。
向かいには主上。その隣には『はるちゃん』。 少し離れて方仁親王。
「……落ち着かぬか?」
主上が少し笑われる。
「いえ。慣れません」
「慣れられても困るがな」
くすり、と『はるちゃん』が笑った。
「よし様、や昨日は普通にお話されていたではありませんか」
「昨日も勢いでした……」
実際、令和の皇室制度から、女系天皇、旧宮家、今日は伏見宮家再編まで語ったあとで、今さら“畏れ多い”も何もない気もする。
だが、冷静になると、やはり相手は帝である。
しかも…
(未来の皇室制度について、数百年単位で説明したんだよな……)
胃が痛い。
方仁親王が湯を口に含みながら言われた。
「しかし、未だに不思議よな」「何がです?」「五百年後でも、“天皇”というものが残っておることだ」
静かな声だった。
「武家が天下を取り続ければ、いずれ皇家など形だけになると思うていた」
私は少し考えた。
「……形だけ、になった時代はあります」「ほう」
「ですが逆に、“形だけだからこそ残れた”部分もあります」
主上が目を細められる。
「武力を持たぬゆえか」「はい」
もし皇家が巨大な軍事権力を持っていたら。歴代武家政権は、もっと徹底して潰しに来ただろう。
けれど実際には、“権威”として利用価値があった。
だから残された。
主上は静かに頷かれた。
「……皮肉なものよな」
「え?」
「力を持たぬからこそ、千年続くか」
その言葉に、私は返事ができなかった。
『はるちゃん』がぽつりと尋ねる。
「ですが…… 未来では、主上は“神”ではないのでしょう?」
空気が少し変わった。
私は慎重に言葉を選ぶ。
「……ある時代、外国を巻き込んだ大きな戦があります」
主上も方仁親王も黙って聞いていた。
「その戦で、日の本は敗れます」
障子の外で、風が鳴った。
「国が焼け、多くの人が死に、価値観が全部変わる」
「……」
「そのあと、当時の、昭和という御代の帝が、“私は現御神ではない”と表明されます」
『はるちゃん』が息を呑んだ。
だが、主上は意外なほど静かだった。
「人間宣言、か」
私は目を見開いた。
「…… 驚かれませんか」「驚いておるよ。されど」
主上は静かに続けた。
「帝が“人”であることなど、本来当たり前であろう」
あまりにも自然な言葉だった。
「神であるなどと言われれば、むしろ苦しい」
その横で、方仁親王が苦笑する。
「父上は昔からそういうところがある」
「方仁」「事実でしょう」
親王は私を見る。
「父上はな。“帝とは役目であって、人格ではない”と考えておる」
主上は少し困ったように笑われた。
「言い方よ」
「違いますか?」
「……まあ、間違ってはおらぬ」
なぜ令和まで皇室が残ったのか、少しだけ分かった気がした。
絶対神ではない。けれど、完全な権力者でもない。
“国そのものを繋ぐ存在”。
だから、形を変えながら生き延びた。
その時、方仁親王が不意に問うた。
「未来の者達は、帝を敬うのか?」
私は少し笑った。
「かなり人によります」「ほう?」「熱烈に敬愛する者もいれば、全く興味がない者もいます」
『はるちゃん』が驚く。
「興味がない!?」
「はい」
「帝に?」
カルチャーショックを受けている。
主上は逆に笑っていた。
「良いではないか」
「父上?」「皆が皆、帝のことばかり考える国など、息苦しかろう」
さらっと言う。
この人、やっぱり感覚が妙に未来的だ。
「ですが」
方仁親王は腕を組む。
「敬われぬ皇家など、やがて消えるのでは?」
そこで私は、静かに首を振った。
「消えませんでした」
「なぜだ?」
私は少し考え、ゆっくり答えた。
「……多分、“近かった”からです」
「近い?」
「はい。未来の帝や皇族方は、民の前に出られます。被災地へ行き、病人を見舞い、頭を下げる」
主上も親王も黙る。
「戦のあと、昭和の帝は焼け跡を回られました。平成の帝は災害のたびに膝をつかれた。令和の帝も、民に寄り添おうとされている」
静寂。
「…… 神ではなく、“人として民に寄り添う”ことで、逆に残ったんです」
『はるちゃん』が、ぽつりと言った。
「優しいのですね」
私は首を横に振る。
「優しいだけでは無理です」
「?」
「多分、ずっと苦しかったと思います」
何百年も。
政治利用され、理想を押しつけられ、時に偶像にされ、時に否定されながら。
それでも… “国の形”として在り続けた。
主上は静かに目を伏せた。
「……ならば」
ゆっくり顔を上げる。
「余らが今しておることも、無意味ではないのだな」
私は、強く頷いた。
「はい」
主上はどこか安心したような顔をしていた。
「……良いではないか」
その声は朝の光の中で、不思議なほど穏やかだった。
「国が続き、人が続き、血が続く」
そして…
「それで、皆が笑えておるならば」
その言葉に、私は、なぜだか少し泣きそうになった。




