後奈良天皇③
私は再び板を見る。最後の方はかなり擦れていた。けれど、辛うじて読める。
『もし未来の日本人がこれを読むなら』
『頼む』
『人を滅ぼすな』
『知識は、人を救うために使え』
『私は――』
そこで文字は途切れていた。板の端が割れている。続きを失ったのだ。
気づけば、部屋の中は静まり返っていた。
『はるちゃん』がそっとこちらを見上げる。
「……泣いておられるの?」
え?
そこで初めて、自分の頬を涙が伝っていることに気づいた。
なんで泣いてるんだろう。
分からない。
でも。
たぶん。
“同じだった”からだ。
時代も立場も違う。けれど。この人もまた、一人で未来を背負おうとした。
知識を残そうとした。誰かを守ろうとした。
『令和のおばちゃん』は、娘を育てた普通の人間だ。
『長慶おじさん』は戦国を生きた武人だ。
でも今だけは、その遥かな過去の“考古学者”と、奇妙なくらい心が重なった。
その時だった。主上が静かに口を開かれた。
「稀仁」
「……はい」
「其方に問う」
空気が張り詰める。
「五百年後の日の本は――」
主上はそこで一度言葉を切った。
そして
「滅びては、おらぬのだな?」
その問いは、帝ではなく、ただ、未来を案じる一人の人間の声だった。
その問いに、私は、すぐには答えられなかった。
『滅びてはいない』
それだけなら簡単だ。
けれど、それをどう伝える?
この人に。
戦乱の只中で、荒れ果てた都を見つめ、国の形を繋ぎ止めようとしているこの帝に。
『令和のおばちゃん』は、知っている。この先の日本を。数え切れない戦。飢饉。地震。火山。疫病。空襲。原爆。そして焼け野原から、それでも立ち上がった人々を。
『長慶おじさん』もまた知っている。今この時代、一つ間違えれば、人が人を喰らう地獄になることを。
沈黙。
主上は急かさなかった。ただ静かに待っておられる。
私はゆっくり息を吸った。
「…… 滅びては、おりません」
その瞬間。
主上の目がわずかに閉じられた。
安堵。
ほんの一瞬だけ、その表情に浮かんだ。
「そうか」
たった三文字。
なのに。
その声には、言葉にできないほどの重みがあった。
『はるちゃん』が父を見つめている。
きっと初めて見たのだろう。
“帝”ではない、一人の父の顔を。
主上は再び目を開ける。
「では……日の本は続いたのだな」
「はい」
「皇家も?」
そこは、少し迷った。
だが、嘘はつきたくなかった。
「……続いております」
次の瞬間。
主上は、小さく笑われた。
本当に小さく。
けれど、 心の底から安堵したような笑みだった。
「そうか……」
そのまま視線を落とされる。
「よかった」
ぽつりと漏れたその一言に、 胸が締めつけられた。
ああ。
この人は。
ずっと怖かったんだ。
自分の代で、全てが終わるのではないかと。
戦乱。困窮。荒廃した都。
帝という立場でありながら、何一つ思うようにならない現実。
その中で、 ただ“国を残したい”と願い続けていた。
主上は静かに言われた。
「余はな、稀仁」
「はい」
「正直に言えば……己が無力であることを知っておる」
『はるちゃん』が目を見開く。
「おもう様……」
「良いのだ」
主上は娘に微笑まれた。
「武もない。銭もない。兵もない」
自嘲気味に笑われる。
「あるのは“帝”という名ばかりよ」
違う。
思わずそう言いそうになった。
この人は、確かに力を持っている。
だからこそ、歴史はここまで続いたのだ。




