後奈良天皇①
御簾の中へと引き込まれた瞬間、ふわりと香が鼻先を掠めた。甘すぎず、けれど凛とした香り。
白檀……いや、もう少し柔らかい。沈香も混じってる? 『令和のおばちゃん』がぼんやりそんなことを考えている横で、『長慶おじさん』は完全に硬直していた。
視線を上げる。
そこにいたのは――
“主上”だった。
煌びやかな冠も、玉座もない。 けれど、この人が「天子」なのだと一目で分かる。
年若くはない。父、海雲より年上なのは分かった。 痩せている。 戦乱と困窮に削られたような顔立ち。だが、その双眸だけは不思議なほど強い光を宿していた。
その隣には、『はるちゃん』が当然のように座っている。
「……ほれ、固まっておるぞ」
今上、知仁天皇(後の後奈良天皇)――主上は、少しだけ口元を緩められた。
え、今、笑った?
『長慶おじさん』の脳内が「不敬!不敬!」と大騒ぎしている。
対して『令和のおばちゃん』は、「あ、この人、娘には甘いタイプのお父さんだ」と理解してしまった。
「稀仁」
「……は、はい」
「そこへ座れ」
示された場所は、主上と『はるちゃん』の正面。 距離が近い。近すぎる。
え、こんな距離感でいいの?
だが『はるちゃん』は気にした様子もなく、私の袖を引っ張る。
「よし様、はよう」
完全に娘に急かされる婿の図だった。
恐る恐る座る。
その瞬間だった。
「…… なるほどのう」
主上がぽつりと呟かれた。
視線が、まっすぐこちらを射抜く。
「二つ……確かにおる」
ぞくり、と背筋が粟立った。脳内の『長慶おじさん』も息を呑む。
分かったのか。“中に二人いる”ことが。
部屋が静まり返る。『はるちゃん』も驚いた顔をして父を見る。
「おもう様……?」
「幼き頃より妙に気配が揺れると思うておった。されど確証はなかった。じゃが今、よう分かった」
主上は静かに目を細められた。
「其方、完全なる『稀人』ではないな」
心臓が跳ねた。
隠していたわけではない。だが、説明できるものでもなかった。
私は『三好千熊丸』であり、『令和のおばちゃん』であり、そして『長慶おじさん』でもある。
その全部が混ざり合って今ここにいる。
どう答えるべきか迷っていると、主上は小さく息を吐かれた。
「案ずるな。責めてはおらぬ」
そう言ってから、
「むしろ興味深い」
完全に研究者の目をされた。
あ、この人。知的好奇心が強いタイプだ。
『はるちゃん』が「あ」と小さく声を漏らす。
「よし様、おもう様、こういうお顔の時は止まりません」
「え?」
「徹夜でお話なさる時のお顔です」
待って。皇帝陛下、徹夜とかするの?
思わずぽかんとしていると、主上がわずかに咳払いをした。
「……娘よ」
「はい」
「余計なことを申すでない」
「でも本当のことでしょう?」
くすくす笑う『はるちゃん』。
それを見つめる主上の目が、一瞬だけとても優しかった。
ああ。この人、ちゃんと父親なんだ。
『令和のおばちゃん』は、そこで初めて少しだけ胸が軽くなった。
“帝”という存在はもっと遠く、もっと人ではない何かだと思っていた。
けれど違う。
この人もまた、娘を案じ、国を憂い、未来に賭けようとしている一人の人間なのだ。




