『即位の儀』
それから一週間かけて『近衛』様は『阿波国』の視察をされた。それには父、海雲たちが同行した。海の幸山の幸を堪能されたらしい。帰られる時には来る時の十倍は軽くお土産を持って帰えられた。お上への献上品と公家衆へのお土産だとか。視察先であれが欲しい、これが欲しい、幾つ欲しいと言われたら瞬く間に荷が増えたらしい。
「何ができてるか、次も楽しみじゃの」
『近衛』様はそう一言私の耳元で囁かれると、はっはっはと痛快そうに高笑いしながら京へと戻られた。
その年(1530年)、厳しい財政が続いているということで即位の儀がまだ行われていないお上のために阿波三好から三〇万疋(三千貫)の献金をすることとなった。
翌年、お上は『後奈良天皇』として即位された。
めでたいけど、超大変だった! まあ、その資金は『近衛』様が持ち帰った『阿波三好』ブランドの商品の数々が日本中から注文が入ったからというのも大きかった。
腐ってもほにゃららというわけではないけれど、やっぱり日本のトレンドは公家の御用達、お墨付きから始まるらしい。大大名を通じたり、堺の商人からもどっさりと注文いただいた。『阿波酒』や『甘味』『阿波紙』『阿波布』『阿波焼き(大谷焼き)』『阿波硝子』等々。
おそらく『勅使』として『視察中』に海雲と話がまとまったんだろう。『近衛』様が京に帰られてすぐに『即位の儀』の費用の負担額の話を海雲から聞かされて叫び声を上げたのは自分だけじゃなかった(長慶おじさんも)。
落ち着いてから、長慶おじさんが、かつての記憶を掘り起こして、両細川の乱があったりで本来なら『即位の儀』はさらに数年遅れて『大内家』が今回と同じように『二〇万疋』の献金をしたんだとか。
阿波三好が参戦しなかった結果、被害もそんなに出なかったのも大きかったのかな。まあ、過去の迷惑料も込みなら仕方がないなとか長慶おじさん、納得してるけど。いいのか、それで。
まあ、決まってしまってるなら、そっち優先で『献金』分を全阿波国協力!でものづくりに励んだ。
で、なんとか要求額の『三〇万疋』の献金作り出した。
金額が金額だから百人くらい精鋭つけて運んでもらった。うちからは父、海雲の弟、つまり孫七郎(康長)叔父さんが一族の代表として行ってくれた。
父(海雲)は『即位の儀』のために上京した。
え? 自分は? 『元服』まだだし、『保護中』だから『阿波』から外には出られては困るのだとか。『近衛』様と『お上』から言われちゃあね。『即位の儀』本当は見てみたかったけど仕方がない。令和と違って映像の中継とかないもんね。
この世界線上では、父、海雲(三好元長)が細川晴元と共に上京しなかったことで大きく歴史が変わってしまっている。
細川晴元や近畿の三好勢は一瞬だけ堺公方を掲げることができたけれど、その後、巻き返された細川高国らに天王寺の戦いで敗戦し、大物崩れは起こらず、逆賊として囚われ、一族晒し首になってしまった。
この時、晴元少年は数え十六歳。まだ、婚姻しておらず、子供もいなかった。
三好元長の従叔父の三好政長もその兄弟も、その息子たちもここで露と消えてしまった。のちの三好三人衆の一人、釣竿斎宗渭も。
早期離脱した足利義維と細川氏之(持隆)は海雲と千熊丸(長慶)の助命嘆願がきき遂げられ、阿波国にて三好の監視下に置かれることになった。
阿波三好が動かなかったことで足利義晴、細川高国体制もそれほど混乱を来さず、事態は収束した。
つまり、義晴は桂川原の戦いで高国が敗れたため、一時的に近江坂本に逃れ、蒲生郡武佐の長光寺に入ったが、その後巻き返しで、朽木に入ることなく、京に戻っている。
この結果、足利義晴や細川高国との関係は微妙ではあるが物理的距離を保ちつつなんとかなっている。
帝や朝廷との関係も同様だ。
本来は『近衛家』にとって『三好』は天敵だった。
けれど、大きな損害を与えることなく、むしろ帝や朝廷を支えていこうとする姿勢(『献金』『献上品』)が好感度を上げたようだ。
『阿波公方』様たちの助命嘆願をするときに多額の『献金』と大量の『献上品」』の効果が効いた結果だろう。
それと『阿波三好』が動かなかっただけで歴史が大きく動き、被害が最小限度に収まったことが最大の理由だったと思う。これが後の『下剋上』にどのような影響を及ぼすのかは未知数だけれど。
ただ今回『千熊丸(長慶)』が帝や朝廷によって『保護』されることになったということが、この後『千熊丸』自身にとって思わぬ大きな分岐点になってしまうことになったのも事実である。




