天文の東宮の恋⑦
――天文四年(1535年)皐月初
京・御所の一角にある小さな庭。
藤の花がまだ少し残っていた。
主上はそこを選ばれた。
評議の場ではない。紫宸殿でもない。ましてや勅命を下す場所でもない。
なぜなら、今日は政治の話ではないからだった。
一人の少女の人生についての話だった。
庭には三人、主上と伏見宮貞敦親王、そして少女。
少女は緊張していた。当然だった。主上と伏見宮当主。北の皇統そのものを前にしている。
主上が先に口を開いた。
「楽にせよ」
「は、はい」
「今日は勅ではない。命でもない。相談だ」
少女は少し驚く。
相談…その言葉が珍しかった。これまで人生で一度もなかった。
誰かが自分に相談することも、自分の意思を聞かれることも。
主上は穏やかに言う。
「そなたを伏見宮の猶子としたい」
その提案に驚いたように少女は顔を上げた。
「猶子・・・ですか」
「うむ」
主上が頷く。
「娘になれという意味ではない。当然、実の父を忘れろという意味でもない。そもそもそなたの過去を消すつもりもない。」
主上は続ける。
「だが、誰かに利用されぬための家が必要だ。」
「家・・・」
「そうだ」
今度は貞敦親王が口を開く。
「伏見宮は皇統を守る家です」
「はい」
「そして時に、行き場のない皇族を迎える家でもあります」
少女は黙る。貞敦親王は笑う。
「位子もおります」
少女は少し驚く。
「あの可愛い姫様ですか」
「はい」
「元気すぎる姫です」
主上が少し笑う。
「たぶんすぐ懐く」
「間違いなく懐きますな」
少女も少しだけ笑った。
空気が柔らかくなる。
そして、主上が静かに言う。
「断ってもよい」
少女が顔を上げる。
「え?」
「朕は強制せぬ」
「伏見宮も同じだ」
貞敦親王も頷く。
「嫌なら嫌と言ってください。それでこの話は終わりです」
「・・・・・・」
「断っていただいても、誰も怒りません。困りません。責めません。それが新しい決まりです」
皇統詔。その理念だった。
少女は俯く。涙が出そうになる。
(まただ)また選ばせてくれる。
この人たちは、選ぶ権利をくれる。
昔はなかった。土佐にもなかった。祖谷にもなかった。
ずっと誰かが決めていた。自分の人生を。
けれど今は違う。少女は小さく息を吸う。
「・・・嬉しいです」
二人が静かに待つ。
「単に娘になれるのが嬉しいのではありません」
「はい」
「選ばせてもらえたことが嬉しいんです」
主上は目を閉じる。
良かった。本当に良かったとそう思った。
少女は続ける。
「お受けします」
静かな声だった。
「伏見宮の猶子になります」
貞敦親王が深く頭を下げる。
「ようこそ伏見宮へ」
少女は少し笑った。
「よろしくお願いいたします」
「まずは位子の相手をお願いします」
「はい?」
「たぶん質問攻めになります」
「・・・頑張ります」
主上が笑う。
「覚悟しておけ」
「伏見宮の姫たちは賑やかだ」
「東宮より大変かもしれぬ」
「父上。」
いつの間にか後ろにいた方仁親王が抗議する。
少女が驚く。
「東宮様?」
「たまたま通りかかっただけです」
「嘘をつくな」
主上が即座に切り捨てる。
「三十分前から庭の周囲を三周しておったぞ」
「父上!」
貞敦親王まで吹き出す。
「東宮様、それは不審者です」
「違います!」
「恋する十七歳ですな」
「貞敦親王まで!」
少女は思わず笑ってしまった。
声を上げて、自然に。
何年ぶりだろう、こんな風に笑ったのは。
方仁親王は彼女の笑顔を見ていた。
そして思う。(ああ、やっぱり好きだ)
もっと笑っていてほしい。その願いは前よりもずっと大きくなっていた。
その強い思いは漏れ出ていたのか、少女が気付く。二人の視線が合う。
慌てて逸らす東宮。その顔は真っ赤だった。
主上と貞敦親王が同時にため息をつく。
「重症ですな」
「重症だな」
少女は少し困った顔をする。
嫌ではなかった。少なくとも、土佐で感じた恐怖とは違う。利用される怖さではない。
今まで経験したことのない、大切にされることへの怖さだった。
そして、それは少しだけ、温かい怖さだった。
そしてこの日、京の空の下で、一人の少女は「南朝の姫」という立場を降りた。
その代わりに得たものは、伏見宮の娘という立場だった。
それはまだ名前のついていない未来だった。




