天文の東宮の恋⑥
――天文四年(1535年)皐月初
京・内裏の夜、評議は終わっている。
公卿たちも帰り、御所は静かだった。
それでも主上はまだ起きていた。灯の下に一枚の書状が置かれている。
そこに書かれていた名はただ一つ。
――南朝の姫。
主上はしばらくその文字を見ていた。やがて、
「貞敦を呼べ」
近習が頭を下げる。
ほどなくして、伏見宮貞敦親王が御前に現れた。
「夜分に申し訳ありませぬ」
「いや」
主上は首を振る。
「そなたにしか話せぬことだ」
貞敦親王は静かに座る。
主上は単刀直入だった。
「姫をどう思う」
少しの沈黙。
「賢い子ですな」
貞敦親王は答える。
「そして優しい」
「うむ」
「何より、あまりにも皇族らしい」
主上は苦笑した。
「やはりそう思うか」
「はい」
それは血筋の話ではなかった。
立場に押し潰されそうになっても、誰かを恨まない、誰かを責めない。むしろ周囲を気遣う、そういう部分だった。
「朕も同じことを思った」
主上は窓の外を見る。
「もし本当に南朝の血ならば、救わねばならぬ。もし違ったとしても、なおさら救わねばならぬ」
貞敦親王は静かに頷いた。
主上は続ける。
「東宮は本気だ」
今度は貞敦親王が苦笑する番だった。
「ええ」
「久々にあのような顔を見ました」
「十七の若者らしい顔だった」
「はい」
主上は少し笑う。
「困ったものだ」
「困りますな」
「「だが、悪くはない」」
二人とも同時に言う。
互いに顔を見合い、静かな笑いが漏れる。そして主上の表情が変わった。
「だからこそだ。このままではならぬ」
貞敦親王も理解した。
姫は現在どこにも属していない『保護対象』、ただそれだけ。
だが東宮との話が進めば違う。必ず言う者が出る。
南朝がどう、正統がどう、血筋がどうと、政治利用しようとする者が必ず現れる。
主上はそれを嫌った。何よりも嫌った。
「朕は決めた」
貞敦親王が顔を上げる。
「姫を伏見宮の猶子とする」
時が一瞬止まったような場が静まった。やがて貞敦親王はゆっくり頷いた。
「なるほど、皇統の保険箱である伏見宮。その娘となれば誰も勝手な旗にはできぬということですな」
主上は頷く。
「南朝の姫ではなくなり、伏見宮の姫となる。そして、東宮が選んだ女性になる」
貞敦親王は感心したように息を吐く。
「見事ですな」
「政治ではある。だが、守るための政治だ」
主上は静かに言う。
「朕はもう誰かを血筋だけで戦わせたくない」
貞敦親王は深く頭を下げた。
「伏見宮、謹んでお受けいたします」
主上は少し驚いた。
「迷わぬのだな」
「迷いませぬ」
貞敦親王は穏やかに笑う。
「娘が増えるだけです」
主上が思わず笑う。
「軽いな」
「軽くなければ務まりませぬ」
そして少しだけ真面目な顔になる。
「ただ一つ」
「何だ」
「本人に聞きましょう」
主上は目を細める。
「またそれか」
「皇統詔を出したのは主上です。本人の意思を無視してはなりませぬ」
主上は観念したように笑った。
「確かにな、朕が言ったことだった」
貞敦親王も笑う。
「最近は皆それを言いますな。稀仁殿も東宮も、永寿内親王殿下も、良いことです」
主上は窓の外を見る。
「時代が変わる」
「はい」
「だが、人が人として扱われる時代なら悪くない」
しばらく沈黙。やがて主上がぽつりと言う。
「位子は怒るかな」
わずか六歳とはいえ、大人の事情で振り回されてしまってばかりいる少女。
父である貞敦親王は真顔で答えた。
「少し怒ります」
「やはりか」
「ですが三日で機嫌は直ります」
「早いな」
「位子は甘味に弱いので」
「稀仁の考えた『あいす』でも送るか」
「たぶん解決します」
二人は笑った。
そして翌日、御所の小さな庭で、主上と伏見宮当主、そして一人の少女との話し合いが始まる。
その少女はまだ知らない。
これから先、自分が「南朝の姫」としてではなく、「伏見宮の娘」として、そして一人の女性として未来を選ぶことになるのだということを。




