天文の東宮の恋⑤
――天文四年(1535年)卯月
京。東宮御所。
方仁親王は書を読んでいた。
正確には、三十分ほど前から同じ頁を見ていた。
一文字も頭に入っていない。
「東宮様」
「……何だ」
「先ほどから一頁も進んでおりませぬ」
近習が静かに指摘する。
方仁親王は視線を逸らした。
「考え事をしていた」
「姫君のことでございますか」
「……」
「図星でございましたか」
否定できなかった。
東宮が恋をしている。それは内裏でも既に知られ始めていた。
誰も茶化さない。むしろ少し安心していた。
東宮がようやく年相応になった、と。
方仁親王自身、不思議だった。
なぜこんなにも気になるのか。
美しいからだろうか。もちろん美しい。けれど違う。
儚いからだろうか。違う。
守りたいからだろうか。
それだけでもない。
もっと厄介だった。もっと単純だった。
(あの人に笑っていてほしい)
それだけだった。
笑っていてほしい。安心していてほしい。
眠れていてほしい。寒くない場所にいてほしい。
怖くない未来を見ていてほしい。それだけだった。
そう思っている自分に気付いた時、方仁親王は少し笑ってしまった。
(これは重症だな)
政治ではなく、理屈でもない。恋だった。
数日後、偶然だった。本当に偶然だった。
御所の庭、姫が花を熱心に見ていた。
藤の花だった。
「お好きなのですか」
方仁親王は少女に声を掛ける。少女が振り返る。
「あっ」
一瞬だけ驚いた顔。そして少し笑う。
「好きです」
「藤が?」
「はい」
「どうして?」
少女は藤を見る。
「急がないから」
「急がない?」
「桜は一気に咲いて、一気に散ります」
「はい」
「でも藤は違います」
「ゆっくり伸びてゆっくり咲く。だから好きです」
方仁親王は黙る。
(ああ)また好きになる。そう思った。困るくらいに。
「東宮様は?」
「方仁で」
少女が笑う。
「方仁様は何がお好きですか?」
方仁親王は少し考える。
「昔は馬でした」
「昔は?」
「今は違います」
「今は?」
方仁親王は少し困った顔をする。
「秘密です」
「ずるいです」
「お互い様です」
顔を見合わせ、二人とも笑う。
風が吹く。藤が揺れる。
方仁親王は心の中で願う。
(ずっとこうしていたい)
何もしなくていい。
政治も。朝廷も。皇統も。全部忘れて。
ただ話していたい。それだけでいい。それだけで十分だった。
その夜、主上の御前にて、
「顔が違うな」
「え?」
「恋をしている顔だ」
「父上」
「否定せぬのか」
「できません」
正直すぎる方仁親王の言葉に主上が笑う。
「重症だな」
「自覚しております」
「どのくらいだ」
方仁親王は少し考える。
「……阿波へ行ってみたいと思うくらいです」
「重症だ」
即答だった。
「お前が旅を嫌うのは有名だぞ」
「知っています」
「それでも行きたいのか」
「はい」
「なぜ?」
方仁親王は窓の外を見る。
「稀仁に会ってみたいのです」
主上が少し驚く。
「稀仁に?」
「はい。あの人なら、姫君が何を望んでいるか知っている気がします」
主上は少し考える。
確かに、あの十三歳の少年は妙に人を見る。
立場ではなく、肩書でもなく、人そのものを見る。
だから人が集まる。だから皆あの子を守ろうとする。
「なるほどな」
主上は納得したように頷く。
「お前も毒されたか」
「毒ですか?」
「阿波の毒だ。人を人として扱う。厄介な思想だ」
方仁親王は笑う。
「良い毒です」
「違いない」
主上も笑った。
京では、十七歳の東宮が、人生で初めて、未来の帝としてではなく、一人の青年として一人の少女を好きになっていた。
そして困ったことに、その想いは日に日に深くなっていた。




