天文の東宮の恋④
――天文四年(1535年)卯月半ば
京では春の雨が降っていた。
南朝の姫――そう呼ばれる少女は、縁側に座って庭を見ていた。
雨粒が池に落ちる。波紋が広がり消える。
また広がる。それを、ただ見ていた。
「姫様」
女房が声を掛ける。
「寒くございませんか」
「大丈夫です」
そう答える。けれど、本当は寒かった。
春なのに、京へ来てからずっと寒かった。
祖谷の山は寒い場所だった。
雪も降る。風も強い。
でも、あの寒さとは違う。京の寒さは胸の中にあった。
(私は誰なのだろう)何度目か分からない問いだった。
幼い頃から聞かされてきた。
お前は特別だ。
お前は南朝の血だ。
お前は皇統だ。
お前は希望だ。
お前は未来だ。
けれど、誰も聞かなかった。
お前は何になりたい? そう聞いてくれた人はいなかった。
四国が天領化になるという噂が祖谷の村に届き始めた頃、このままでは駄目だ。周囲のそんな声に流されて土佐へ向かった。生まれて初めて村から出た。正直怖かった。
たどり着いた城の中は剣の匂いがした。戦の話ばかりだった。
兵の数。城の数。敵の数。そして自分の話。
「姫がおられれば兵が集まります」
「姫がおられれば大義になります」
「姫がおられれば――」
嫌だった。自分が自分ではなくなっていく。
だから逃げた。怖かった。
山を走った。夜を歩いた。泣いた。寒かった。死ぬかと思った。
そして、あの日、あの少年がいた。
『戦いたいですか』
最初、その質問の意味が分からなかった。
誰も聞かなかったから。
何をしたいか。何を望むか。そんなこと、誰も聞かなかった。
『いいえ』
そう答えた。
すると少年は言った。
『では終わりです』
終わり。
その言葉が理解できなかった。
『帝が保護を命じています。だから、もう旗にはなりません』
あの瞬間、本当に終わったのだと思った。
十年以上背負わされていたものが。
消えた。軽くなった。怖いくらいに。
だから泣いた。止まらなかった。
安心して泣いたのは、あれが初めてだった。
そして京、今度は東宮様だった。優しい人だった。
真っ直ぐな人だった。まっすぐ過ぎるくらいに。
『好きです』
思い出すと顔が熱くなる。
「ずるい」
思わず口に出る。
女房が首を傾げる。
「何か仰いましたか?」
「いえ」
東宮様はずるい。未来の帝。
そんな人に好きだと言われて、平気でいられる人なんているだろうか。
しかも、
『東宮としてではありません。方仁として来ました』
そんなことを言う。反則だった。(困る)
本当に困る。好きになってしまう。
あんな言い方をされたら、好きになってしまう。
でも、怖い。
また旗になるかもしれない。
また誰かのための存在になるかもしれない。
また名前を失うかもしれない。
自分ではなくなるかもしれない。
その時、ふと別の顔が浮かぶ。徳島の少年の顔。
『あそこに学校があります』
『あっちに病院もあります』
『友達もできますよ』
あの少年は変だった。
私が皇統かもしれないと言われても、話すのは学校の話。病院の話。友達の話。未来の話。
あの子だけだった。自分を普通の女の子として扱ったのは。
(あの二人、少し似ている)
ふと思う。
東宮様もあの少年も立場より人を見る。だからこそ、安心できた。
人生で初めて、利用されないかもしれないと思えた。
その日の夜、主上から呼び出された。
緊張したけれど、主上は優しかった。
「困っておるか」
「はい」
「そうであろうな」
主上は笑った。
「断ってもよい」
少女は顔を上げた。
「え?」
「誰も責めぬ。だが…」
一拍。
「望むなら選んでもよい」
静かな声だった。
「皇統である前に人であれ」
少女は言葉を失う。
「昔の朝廷なら違ったかもしれぬ。だが今は違う。朕が変えると決めた」
主上は窓の外を見る。
「誰かの人生を制度のために使わせぬためにな」
少女は泣きそうになった。
この人(主上)も守ろうとしてくれている、私を。
南朝の皇統ではなく、一人の少女として。
部屋へ戻る。眠れない。
窓を開けると春の風が入ってくる。
そして、初めて考える。(私はどうしたいんだろう)
南朝の姫としてではなく、皇統としてでもなく、旗でもなく、大義でもない。
一人の女の子として、どうしたいのか。
答えはまだ出ない。でも、昔とは違う。
昔は選べなかった。今は選べる。選ぶことを許されている。
それだけで、少しだけ未来が怖くなくなっていた。
遠くで鐘が鳴る。京の夜だった。
そして少女はまだ知らない。
同じ頃、方仁親王もまた眠れずにいたことを。




