天文の東宮の恋③
――天文四年(1535年)卯月初。
京・内裏。
朝の光が障子を透かしていた。
方仁親王は眠れていなかった。
昨夜も一昨日も。理由は分かっている。人生で初めてだった。
戦でもない。政でもない。評議でもない。
たった一人の少女の返事が怖い。
「東宮様」
近習が声を掛ける。
「お時間にございます」
「……ああ」
立ち上がる。鏡を見る。
鏡の中にいるのは東宮の装束を身につけた方仁親王、未来の帝。
けれど今日ばかりは違う。
(東宮として行くのではない)
(方仁として行く)
そう決めていた。
場所はいつもの御所の庭園だった。
桜が散り始めている。
そこに彼女はいた。土佐から来た少女。南朝の姫。
けれど今は違う。
主上自身が認めたからだ。彼女は政治ではないと。
だから、一人の少女として扱われる。それが朝廷の決定だった。
「お待たせしました」
少女が振り返る。
「東宮様」
「今日は方仁で」
少女が少し驚く。
「え?」
「東宮ではなく、方仁として来ました」
少女は少しだけ笑った。
「変な方ですね」
「よく言われます」
二人とも少し笑う。
沈黙。
桜が落ちる。
方仁親王は深呼吸する。
「好きです」
少女の目が大きくなる。
「あなたを守りたいと思いました。支えたいと思いました。もし…」
方仁親王は真っ直ぐ見る。
「もし嫌でなければ、私と共に歩いていただけませんか」
静かだった。風だけが吹く。
少女は俯く。
「……怖いんです」
方仁親王は黙って聞く。
「私は自分が誰か分かりません。確かに南朝の姫と言われ、皇統と言われました。けれど…」
顔を上げる。
「私は私です」
「はい」
「もし結婚したら、また旗になるかもしれません。利用されるかもしれません」
「そうかもしれません」
方仁親王は否定しなかった。
「東宮妃になれば、間違いなく政治になります」
「隠すことはできません」
「……」
「ですが」
方仁親王は続ける。
「それでも守ります。東宮として、未来の帝として。そして、一人の男として」
少女は黙る。やがて…
「ずるいです」
「え?」
「そんな言い方されたら困ります」
初めてだった。彼女が困った顔を見せたのは。
「返事はすぐにはできません」
「はい」
「考えてもいいですか」
「もちろんです」
方仁親王は笑った。
「一年でも十年でも待ちます」
「十年は待たせません」
思わず二人とも笑う。それだけで十分だった。
返事はまだない。けれど拒絶でもない。
それだけで方仁親王には世界が明るく見えた。
その日の夕方、主上の御座所。
「で?」
主上が尋ねる。
「返事は?」
方仁親王は少し照れた顔をする。
「保留です」
「ほう」
「考える時間が欲しいと」
主上は頷く。
「良い返事だ」
「そうでしょうか」
「良い」
主上は息子を見て笑う。
「自分で決めると言ったのだ」
「それが何より大事だ」
方仁親王は少し安心する。
「父上」
「何だ」
「もし断られたら?」
「泣け」
「……」
「男は一度くらい失恋した方がよい」
「父上」
「その方が人に優しくなれる」
方仁親王は苦笑した。
「覚えておきます」
その夜の伏見宮御所。
位子王女は難しい顔をしていた。
わずか六歳。しかし伏見宮の姫である。
話には聞いていた。東宮妃になるはずの自分。そして東宮と南朝の姫のこと。
耳にしつつ、気が付かないように振る舞っていた。
「お父様」
「何だい」
「東宮様はあの方が好きなのですか」
伏見宮貞敦親王は少し困る。
「そうみたいだね」
「そうですか」
位子王女は少し考える。
「では私は嫌われていたのでしょうか?」
「違う」
貞敦親王は即答だった。
「位子は悪くない」
「ならよかった」
六歳の少女は小さく笑う。
「でも」
「うん?」
「東宮様に好きな人がいるなら… 仕方ありません」
貞敦親王は驚く。
「怒らないかい?」
「怒ります」
「怒るのか」
「でも」
位子王女は空を見る。
「好きは命令できません」
その言葉に貞敦親王は黙った。(この子も皇族だな)そう思った。
小さい。まだ六歳だ。それでもちゃんと理解している。
立場ではなく心の問題なのだと。
その頃の徳島城。
「予算が足りない」
「足りません」
「船が足りない」
「足りません」
「先生も足りない」
「足りません」
「なんで?」
「国を増やしたからです」
容赦のない篠原小一郎(長房)に、私(長慶)は机に突っ伏した。
「方仁親王様はいいなあ。恋愛してて。こっちは税制改革してる。何故だ。」
やや呆れ顔で『はるちゃん』が、
「よし様」
「何?」
「たぶん兄上様は兄上様で大変です」
「そうかな」
「そうです」
私(長慶)は首を傾げる。
「恋ってそんなに大変?」
「国を作るより難しいかもしれません」
「そんな馬鹿な」
後の歴史家は語る。
この時代、日本で最も政治に忙しかった十三歳は、恋愛だけは致命的に理解していなかった、と。




