天文の東宮の恋⑧
――1535年、卯月初
京、御所。
春の陽が庭の若葉を照らしていた。
その日、御所の空は妙に静かだった。
理由は一つ、東宮妃が正式に決まったからである。
南朝の姫。しかし、いまはもう、その呼び名では呼ばれない。
主上の裁可により、伏見宮邦輔親王の猶子となった少女。
そして正式に―― 東宮・方仁親王妃。未来の皇后。その立場が決まったのだった。
方仁親王は、その知らせを聞いても、しばらく何も言わなかった。
ただ窓の外を見ていた。
主上がそんな方仁親王を見て言う。
「嬉しくないか」
方仁親王は少し考える。
「嬉しいです」
「ならば何故そんな顔をする」
方仁親王は困ったように笑った。
「嬉しいのですが」
「うむ」
「少し怖いのです」
主上は黙る。方仁親王は心の中にあるものを吐露するように続けた。
「私はあの方を最初に見た時」
「うむ」
「南朝の姫だから好きになったのではありません」
「分かっておる」
「皇統だからでもありません」
「分かっておる」
方仁親王は静かに言った。
「泣いていたからです。一人で全部背負わされて、誰にも頼れず、それでも他人のために泣いていた。私は、その姿を見てしまった」
主上は何も言わない。
「だから私は、守りたいと思いました。ですが…」
方仁親王は自身の拳を握る。
「東宮妃になれば、今度は私があの方を守るのではありません。二人で皇統を背負うことになります。十七歳の私に、それが出来るのか」
主上は少しだけ笑った。
「出来ぬだろうな」
方仁親王は父である主上の言葉に目を丸くする。
「父上?」
「朕も出来なかった」
主上は遠くを見る。
「祖父帝も父帝も、誰一人、最初から出来た者などおらぬ。出来るようになるのだ」
方仁は黙るが、主上は続ける。
「皇后とは支える者ではない。共に背負う者だ。ならば二人で背負えばよい。」
方仁はゆっくり頭を下げた。
「はい」
一方、同じ頃、伏見宮御所。
六歳の少女が父親の前に座っていた。
位子王女。本来なら東宮妃となるはずだった少女。
だが、その席は別の少女のものになった。
伏見宮貞敦親王は娘を見る。
「位子」
「はい」
「辛くはないか」
「少しだけ」
正直だった。六歳の子供の正直さだった。
「阿波に行く話がなくなって、東宮様のお妃になると思っておりました」
「うむ」
「皆もそう言っておりました」
「うむ」
「だから少しだけ寂しいです」
貞敦親王は黙る。位子は続けた。
「でも」
「でも?」
「東宮様はあのお姉様のことが好きなのですよね」
六歳の娘の言葉に父は驚く。
「分かるのか」
位子は頷いた。
「分かります。御所で見ておりました。東宮様、あのお姉様を見る時だけ顔が違います」
貞敦親王は思わず笑う。確かにその通りだった。誰の目にも明らかだった。
十七歳の東宮は、完全に恋をしていた。
位子は少し俯く。
「だから」
「だから?」
「私がお妃になっても、東宮様は幸せではありません。私もそれは嫌です」
六歳の少女の言葉だった。
だが、それは驚くほど真っ直ぐだった。
「東宮様には笑っていて欲しいです」
貞敦親王はしばらく何も言えなかった。
「位子」
「はい」
「お前は優しい子だな」
位子は首を振る。
「違います」
「うん?」
少女は少しだけ笑った。
「私も好きな人には笑っていて欲しいだけです」
そして、位子は突然言った。いや、もしかするとこういう状況になり始めた頃からずっと考えていたのかもしれない。そう思わせるほど、意志のある瞳で、
「おもう様」
「何だ」
「阿波へ行きたいです」
貞敦親王は目を瞬く。
「阿波?」
「はい」
「何故だ」
位子は少し考える。
「見てみたいのです」
「何を」
「稀仁様の国を」
静寂。
「東宮様も主上もおもう(父)様も、皆、阿波の話をします。学校、病院、港、帳簿、お医者様…」
少女は少し頬を膨らませる。
「でも、誰も見たことがありません」
言われてみれば、確かにそうだった。
実際公卿で当時の阿波を見たのは近衛稙家だけだった。
その後、四国の天領化が進むにつれて、朝廷からも阿波へと派遣されるものが増えてはきているが、皇族に連なる者で直接阿波を見たものはほぼ居ない。
主上も東宮も、伏見宮である自分も。
噂と報告書しか知らないのだ。ある意味異常な状況かもしれない。
「私は見てみたいです。稀仁様が作ろうとしているものを。それに…」
位子は少し笑う。
「昔、お約束しました」
「約束?」
「はい」
「また冬になったら、一緒に氷菓子を食べましょうって」
貞敦親王は思い出す。
当時まだ四歳位だった位子からも、そして位子につけた家のものからも聞いていたことを思い出す。
あの日、御所で行われた顔合わせ。
稀仁と永寿内親王と東宮。そして位子と稀仁の側室候補の公女たち。
主上まで巻き込んだ、あの妙な茶会。
そして、乳と砂糖を使った贅沢で『あいす』という甘い冷菓子。
「冷たい!」
「甘い!」
「美味しい!」
と東宮までが騒ぎ。
お上まで満足そうに笑っていたそうだ。
あの日、位子は確かに言った。
「また来年も食べましょう」
「うん。約束」
稀仁も笑って答えたそうだ。
貞敦親王は娘を見る。東宮妃にはならない。
けれど、娘の人生はそれで終わりではない。
皇統詔によって世界は広がった。女子もまた役目を持つ。
国を支え、皇統を支える。
新しい時代、位子にもまた彼女自身の道がある。
貞敦親王はゆっくり頷いた。
「分かった」
位子の顔が明るくなる。
「本当ですか!」
「ああ」
「ただし」
「はい!」
「まずは読み書きと算術を終えてからだ」
「えー!」
「阿波式は勉強が多いらしいぞ」
「うっ……」
六歳の少女は固まった。
父は笑う。
「頑張れ」
「……はい」
同じ頃、東宮御所。
方仁親王は文を書いていた。
宛先は一つ、伏見宮へ移ったばかりの少女。
筆が止まる。何を書くべきか分からない。
詩歌とは少し違う。直接、彼女に届ける私文。
東宮として書くべきか、未来の夫として書くべきかと色々迷い悩む。
そして最後にやっと、たった一行だけ書いた。
『京の桜が咲きました』
それだけだった。
政治も皇統も制度もない。ただ、好きな人に春を伝えたかった。
十七歳の青年のそれが最初の恋文だった。




