天文の東宮の恋①
――天文四年(1535年) 三月
京・内裏。
春の雨が降っていた。
御所の一室。そこには、数人しかいない。
主上(後奈良帝)、東宮、そして一人の少女。
土佐より保護された「南朝の姫」。
祖谷の山で育ち、平家の落人たちに守られ、長曾我部国親に利用されかけ、そして今、京にいる。
長い確認だった。
系図、古文書、寺社記録、祖谷に残る伝承。残されていた朝廷側の記録との参照。
そして何より代々、口伝でのみ受け継がれてきた幾つもの符号。
それらが一致した。完全な証明ではない。
しかし、主上には十分だった。
主上(後奈良帝)は静かに言われた。
「皇統である」
部屋が静まる。
「南朝皇統。遠き昔、山へ消えた枝。されど、皇統は皇統である」
少女は俯いていた。
嬉しさではない。困惑だった。
彼女は今まで何度も聞かされてきた。
「姫様は特別な方です」
「姫様は皇統です」
「姫様は南朝再興の希望です」
けれど、彼女自身は一度も望んだことがない。
戦も、旗印も、権威も。ただ静かに暮らしたかった。
主上はそんな彼女を見る。
「安心せよ」
少女が顔を上げる。
「そなたを戦に使う者は、もうおらぬ」
その言葉に、少女は初めて少しだけ泣いた。
数日後、評議で彼女の今後が話し合われていた。
最初の案、それは明快だった。
本来ならば永寿内親王が「大聖寺門跡」に入る予定だった。
しかし永寿内親王は四州近衛家へ降嫁している。
空席だった。公家たちは頷く。
「良き案です」
「身分も守られる」
「政治利用もされませぬ」
「安全です」
誰も反対しない、唯一人を除いて。
「反対です」
評議の場が静まり返る。
全員が振り向く。発言者は東宮、方仁親王。
十八歳。普段は温厚であり、滅多に意見を押し通さない。
そんな人物が、珍しく譲らない。
主上が尋ねる。
「理由は」
方仁親王は少し黙った。
「まだ十五です」
それだけだった。
「寺へ入るには若すぎます」
「人生を決めるには若すぎます」
「本人の意思を確認すべきです」
もっともな意見だった。
けれど、それだけではないことを、同時にこの場の全員が察していた。
後日、御所の一角の庭園。
南朝の姫と呼ばれる少女は梅を見ていた。
そこへ現れる、方仁親王。
「寒くありませんか」
突然の訪問に少女は驚く。
「いえ」
会話が途切れ、沈黙が続く。
少し気まずい。方仁親王は会話があまり得意ではない。
少女も同じだった。
しばらくして、方仁親王が話しかける。
「阿波はどうでしたか」
その言葉に、少女は少し思い出したかのように笑った。
「変な国でした」
「変?」
「はい」
「学校がありました」
「病人を診る場所がありました」
「子供が勉強していました」
「戦の話を誰もしませんでした」
方仁親王は笑う。
「ああ、それは稀仁殿らしい」
少女は頷く。
「未来の話ばかりする方でした」
「橋を作る、港を作る、学校を増やす。そんな話ばかり」
「皇統の話は?」
「一度もしませんでした」
方仁親王は少し驚いたが、すぐに納得をした。
あれほどの立場にありながら、確かにあの少年ならやりそうだった。
少女が尋ねる。
「東宮様は…」
「はい」
「どんな未来を作りたいですか?」
方仁親王は少し考え、そして答える。
「戦のない国」
少女は驚いたように目を見開いた。
「稀仁殿と同じですね」
方仁親王は苦笑する。
「たぶん、私もあのものの話を聞きすぎたのでしょう」
その日からだった。
方仁親王が妙に評議へ顔を出すようになったのは。
妙に大聖寺の話を先送りするようになったのは。
妙に庭を散歩するようになったのは。
主上はその全部知っていた。
もちろん、近衛稙家も気付いていた。
そして、遠く離れた阿波の地にいる妹の『はるちゃん(永寿)』も、その話を聞いてすぐに気がついた。
「よし様」
「なに?」
「兄上様、恋をしております」
私(長慶)は思わず茶を吹いた。
「ぶっ」
「え? 誰に?」
呆れた顔をする、『はるちゃん』。
「南の姫様です」
その言葉に流石の私(長慶)は固まった。
脳内の「長慶おじさん」も固まった。
(あれ? 歴史にそんなイベントあった?)
ない。当然ない。
なぜなら、南朝の姫が京に行く未来そのものが存在しなかったからだ。
私(長慶)が存在するからこそ、四国は天領化された。その結果、祖谷から出るはずのない南朝の姫様が動いたからだ。そして、それを旗頭にした長曾我部は歴史から消えた。
数日後、主上は方仁親王を呼ぶ。
「方仁」
「はい」
「聞こう」
主上に促され、方仁親王は観念した。
「……はい」
主上は真顔だった。
「好いておるのか」
沈黙、長い沈黙。
やがて、方仁親王は静かに答える。
「はい」
主上はそんな方仁親王を見て少し笑った。
「そうか」
「はい」
「困ったな」
「はい」
「だが、悪くない。」
方仁親王が顔を上げるが、主上は続ける。
「北朝と南朝、百年以上前に別れた血。それが再び一つになる。もしそれが人の心によるものなら。朕は止めぬ」
こうして、大聖寺門跡予定だった少女の運命は、再び大きく変わり始める。
そして京では、公家たちが頭を抱えることになる。
南朝皇統。東宮。伏見宮。皇統詔。そして新しい婚姻。
誰も経験したことのない問題だった。
ただ一人、徳島城で報告書を読んでいた十三歳の少年だけが。
「えっ?」
と声を上げていた。
「方仁親王様、本気なの?」
隣で海雲が笑う。
「恋に理屈はない」
私(長慶)は真剣だった。
「いやいやいや。これ絶対、歴史の教科書に載るやつじゃん」
春の風が吹く。
そして京では、百七十年続いた南北朝の残響が、ようやく静かに終わろうとしていたのである。




