天文の皇族の子供たち①
天文四年(1535) 如月
徳島城 奥御殿
その日、『はるちゃん(永寿)』は珍しく黙っていた。
障子の向こうでは春が近い。
それなのに部屋の空気だけが冬だった。
向かいには海雲と私(長慶)、その隣には京から来た使者。
使者が静かに告げる。
「皇統詔に伴う皇族再配置の件にございます」
嫌な予感しかしなかった。
「まず」
使者が文を開く。
「伏見宮邦輔親王殿下の御正室として、永寿内親王殿下をお迎えしたいとの議がございます」
部屋が静まる。
私(長慶)は意味を理解するまで少し時間がかかった。
つまり…
『はるちゃん』が、徳島を出る? 私(長慶)の隣からいなくなる?
「お断りします」
早かった。驚くほど早かった。『はるちゃん』は即答した。
使者の方が固まる。
「まだ最後まで──」
「お断りします」
二度目だった。『はるちゃん』の声は穏やかだった。けれど、一歩も引かない声だった。
「理由を伺っても?」
少しだけ考え、『はるちゃん』は答える。
「私は四州近衛家へ嫁ぎました」
静かな声。
「皇女としてではありません。稀仁様の妻として参りました。故に動きません。」
海雲は何も言わない。ただ目を閉じていた。
使者も困っている。
正論だった。制度として見れば伏見宮正室は重要。
しかし彼女の言葉もまた正しい。
「私は四国へ参りました」
続ける、『はるちゃん』。
「学校を見ました」
「病院を見ました」
「港を見ました」
「この国が生まれるところを見ました」
そして、彼女は軽やかに笑う。
「今さら京へ帰れと言われましても困ります」
私(長慶)は思わず吹き出した。
使者はもっと困った顔をした。
海雲は笑いを堪えている。
「それに」
彼女は私(長慶)を見る。
「よし様は放っておくと働き過ぎます」
「……否定できない」
「私が必要です」
「否定できない」
「だから行きません」
彼女の完全勝利だった。
数日後、京。
主上(後奈良帝)は報告を受ける。
「断られたか」
「はい」
主上は少し笑う。
「そうであろうな」
傍らの近衛稙家も笑う。
「昔から頑固なお方でした」
「似た者夫婦でございます」
主上は頷く。
「ならば動かすまい」
それで終わった。驚くほどあっさり。
なぜなら、皇統を守る制度は必要だが、その制度が人を壊してはならない。それもまた皇統詔の精神だったから。
そして新しい人事が動く。
大慈光院。静かな尼寺。
一人の女性が呼び戻される。
覚音女王。後柏原帝第二皇女。主上(後奈良帝)の妹。
還俗。そして伏見宮邦輔親王正室へ。
彼女(覚音女王)は笑ったという。
「今さら嫁ぐ歳でもありませんのに」
それに対して主上は答えた。
「妹よ。今さらだから頼むのだ」
延暦寺。曼殊院。
覚恕親王が呼び戻される。
「還俗」
その二文字を見てしばらく動かなかった。
寺へ入った時、自分の人生は決まったと思っていた。
だが違った。皇統詔は諦めたはずの人生を戻してくる。
「父上が呼んでおられる」
使者は言う。
「皇子として生きよと」
覚恕親王は長く黙った。
そして…
「そうですか」
それだけ言った。
同じ頃、別の文が届く。
尊鎮入道親王。
かつて清彦親王 と呼ばれた男。
延暦寺。山門。
還俗。皇子家創設予定。
渡された文を見て、彼は笑った。
「今さら俗世か」
そして空を見る。
「面白い」
戦国の坊主として死ぬつもりだった。
だが主上は許さない。
お前は皇族として生きろ。そう命じた。
そして徳島。
私(長慶)は机に突っ伏していた。
「人が増える……」
横で小一郎が書類を書いている。
「増えますね」
「側室候補が増える……」
「増えますね」
「怖い」
「諦めましょう」
海雲は笑っていた。
「千熊丸」
「何?」
「制度とはこういうものだ」
私(長慶)は顔を上げる。
海雲は窓の外を見る。
「人を守る」
「人を縛る」
「人を動かす」
「全部同時にやる」
言葉を並べる海雲に私(長慶)は黙る。
確かにそうだった。
学校を作れば先生が動く。
港を作れば商人が動く。
皇統を守ろうとすれば、皇族が動く。
それぞれの人生が動く。
その夜、私(長慶)は天守閣から一人で港を見る。
灯が揺れていた。
昔の、『令和のおばちゃん』だった頃の私(長慶)は、制度は便利な道具だと思っていた。
でも違った。
制度は人の人生そのものだった。
するといつの間にか隣に『はるちゃん』が立っていた。
「難しい顔をされています」
「してる?」
「しています」
私(長慶)は苦笑する。
「なんか責任重いなって」
彼女は言葉を選ぶかのように言った。
「一人で持たないでください」
「え?」
「半分持ちます」
こんなことをさらっと言う。本当にさらっと。
私(長慶)はその言葉に笑う。
「ありがとう」
彼女も笑う。
「夫婦ですから」
港の灯が揺れる。春はまだ遠い。
けれど確実に時代はもう動き始めていた。




