讃岐の天領化⑨
阿波を発って三日。
一行は引田を越え、讃岐へ入った。
もっとも、誰もが予想していたような緊張した国境警備は無かった。
既に書状は届いている。
送り主は、
『四州近衛孫次郎長慶稀仁』
そして後ろには、朝廷、近衛家。
さらに海雲。
讃岐の国人たちも無視できる相手ではない。
だからといって、全面的に賛同している訳でもない。
皆が様子見だった。
「人は知らないものを恐れる」
街道を進みながら海雲が言う。
「だからまず見せる」
私(長慶)は頷いた。そのために来たのだから。
讃岐国分寺。古くから続く由緒ある寺。
(ここも長曽我部によって焼かれちゃったんだよね)
その広い境内には、既に多くの者が集まっていた。
国人、寺社勢力、有力百姓、商人、塩田経営者、港の代表。
そして、讃岐の城主たち。
総勢二百近い。その圧力に阿波の少年たちが息を呑む。
「多いな……」
彦太郎(森元村)が小声で呟く。
「当たり前だ」
小一郎が答える。
「四国の話だからな」
その時、一人の国人がこちらを見て眉をひそめた。
「本当に若い」
周囲も頷く。無理もない。
『四州近衛家嫡流当主』
『帝の皇女の夫』
『天領化の中心人物』
そう聞けば、三十代か四十代を想像する、ところが実際にはまだ十二歳に満たない少年だった。
けれども海雲はその反応を気にしない。むしろ当然だと思っている。
「まず座れ」
私(長慶)は皆に言った。
すると、国人たちが少し困惑する。
「……?」
普通なら主催者が上座。国人たちは下座。
そうなる。だが私(長慶)は首を振った。
「今日は評議だ。命令ではない。だから全員同じ場所で話す」
讃岐の国人たちが顔を見合わせる。
海雲が横で苦笑した。
「始まったな」
篠原長政も笑う。彼ら(阿波の大人たち)は知っている。
私(長慶)がこういうところで妙なことを言い出すのを。
やがて、大きな輪ができた。
中央に地図、周囲に人々。そして、上座が無い。これだけで既に異様だった。
私(長慶)は立ち上がる。
だが演説はしない。まず聞く。
父、海雲との約束だ。
「讃岐で一番困っていることは何ですか」
その問いかけに場が静まる。誰も予想していなかった。
普通なら、天領化の説明、朝廷の方針。そういう話が始まる。
だが違った。
「まず聞きたい」
私(長慶)は繰り返す。
「讃岐で困っていることは何ですか」
しばらく沈黙。やがて、一人の老国人が口を開く。
「水だ」
私(長慶)は頷く。
「詳しくお願いします」
「雨が少ない」
「溜池はある」
「だが足りぬ」
別の者が続く。
「川の水争いも多い」
「上流と下流で揉める」
さらに、
「塩田も水を使う」
「田も水を使う」
「毎年同じことになる」
私(長慶)は横を見る。書記たちが一斉に記録している。
少年たちも必死だ。これが最初の授業だった。
「他には」
私(長慶)は尋ねる。
「港だな」
商人が答える。
「荷が増えている。だが荷揚げ場が狭い」
さらに…
「街道が悪い」
「橋が足りぬ」
「市ごとに升が違う」
場が少し盛り上がり始める。
皆、誰しも不満はある。ただ言う機会と場所が無かっただけだ。
私(長慶)は何も反論しない。
ただ聞く。書く。整理する。
その様子を見ながら、海雲は腕を組んで話をただ聞いていた。そして、小さく笑う。
「なるほど」
海雲の呟きに側にいた篠原長政が尋ねる。
「何がです」
「こいつは」
海雲は中央に座る息子(長慶)を見る。
「国人たちを説得するつもりだった」
「違うのですか」
「違うな」
海雲は笑った。
「先に讃岐の不満を全部吐き出させる気だ」
海雲の言葉に篠原長政も気付く。
「ああ……」
なるほど、人は自分の話を聞いてくれる相手を嫌いになれない。
まして反論もせず、馬鹿にもせず、真剣に書き留める相手ならなおさらだ。
そして、評議が始まって二刻ほど経った頃、私(長慶)はようやく地図へ手を伸ばした。
「皆様」
先ほどまでとは違う声。静かに、しかしはっきりと。
「今聞いた話、実は全部繋がっています」
私(長慶)のその言葉に、讃岐の国人たちが初めて真剣な顔でこちらを見た。
いよいよ、私(長慶)が考える『天領化』の話が始まろうとしていた。




