讃岐の天領化⑧
――1534年、如月。
翌朝、徳島城の大手門前には、早朝から人が集まっていた。
城下の町人。百姓。職人。寺社の者。
皆が見送りに来ている。けれど、その集団を見た時、誰もが不思議そうな顔をしていた。
理由は簡単だった。出立する一団が。どう見ても軍勢ではなかったからだ。
もちろん武士、護衛もいる。しかし、その集団には…
鍬を持った男がいる、測縄を担いだ男がいる、帳面を抱えた書記がいる。
大工が、 船大工までいる。
そして、少年たちがいる。しかも五十人以上。彼らは阿波の城主嫡子たち。
普通なら各家で大事に育てられる跡継ぎが、一堂に会している。
城下の者たちも見たことがない光景だった。
「まるで寺子屋じゃな」
「いや、旅芸人の一座かもしれん」
「どちらにせよ軍勢ではないな」
笑い声が起きる。
その時、大手門が開いた。場の空気が一瞬で変わる。
最初に現れたのは、海雲。阿波の守り手。
引き続いて、篠原長政、大西家の当主。
一宮家の当主。新開家の当主。その他の阿波の重臣たち。
そして、最後に、私(長慶)だった。
皆の視線が集まる。
おそらく初めて見る(いつもは武家風)四州近衛家の衣装。
武家の装束でありながら。どこか京の気配を残している。
腰には刀。けれど脇には帳面。
その姿に城下の者たちが少しざわめく。
「本当にあの若様は変わっておる」
誰かが呟く。
海雲がそれを聞いて笑った。
「今さらだな」
周囲から苦笑が漏れる。
やがて、一団の中央へ、長持が運ばれる。
その瞬間、場の空気が張り詰めた。
皆が知っている、中身を。
海雲自身が蓋を開くと、巻かれていた布が静かに広げられる。
『錦の御旗』
誰に強制されたわけでもなく一斉に全員が頭を下げた。
城下の者も、武士も、職人も、少年たちも、自然に。それほどの重みがあった。
私(長慶)は横で見ていた。
前世なら教科書の中にしかなかった旗。
これは朝廷から預かった信頼そのものだった。
海雲が皆へ告げる。
「勘違いするな」
静かな声。
「これは戦の旗ではない」
皆が聞いている。
「脅すための旗でもない」
「帝の信頼の証だ」
「故に粗末に扱うことは許さぬ」
一同。
「はっ!」
力強い返事。
そして、私(長慶)は前へ出た。
五十人の少年たちを見る。彼らも緊張している。
初めての遠征。初めての公務、初めての四国。
私(長慶)は全体を見回しながらゆっくり言った。
「今日から讃岐へ向かう」
静まり返る。
「だが覚えておけ」
私(長慶)は一人一人を見る。
「我らは征服に行くのではない」
「はっ」
「教えに行くのでもない」
少年たちが顔を上げる。
「学びに行く」
海雲が満足そうに頷いた。
昨夜の話を覚えている。
『まず聞け。教えるな。聞け』
私(長慶)は続ける。
「讃岐には讃岐の知恵がある。讃岐には讃岐の暮らしがある」
「だからまず見る」
「そして聞く、そして考える」
その言葉に、小一郎(篠原長房)が一歩前へ出る。
「殿(長慶)」
「何だ」
「もし反対されたら」
一瞬、周囲が静まる。当然の疑問だった。
讃岐の国人たちが全員賛成するとは限らない。
私(長慶)は少し考え、そして答えた。
「ならば理由を聞く」
静寂。
「まずはそれだ。反対するには理由がある。なら聞く、聞いて考える。そして一緒に解決する」
戦国の武家らしくない答えだった。だが海雲は満足そうに笑った。
「よし」
その一言。そして…
法螺貝ではなく、鐘の音が鳴る。
出陣ではない、出発だ。
こうして『四州近衛家』…
阿波の未来を担う五十人の嫡子たち。
阿波の重臣たち。技術者たち。職人たち。
そして『錦の御旗』。
二百名を遥かに超える奇妙な一団は、讃岐国分寺で待つ国人たちとの対話のため、阿波を後にした。
誰もまだ知らない。この旅が、後に四国全体の在り方を変える最初の一歩になることを。




