讃岐の天領化⑥
讃岐へ向かう準備が進む中、海雲は一つだけ念を押した。
「千熊丸」
「はい」
「讃岐へ行く前にやることがある」
「書状ですね」
海雲は頷いた。
いくら帝の裁可が下りたとはいえ、いきなり二百名を超える一団が国境を越えれば騒ぎになる。
「先に知らせる。呼び出すのではない」
海雲が補足する。
「来てもらうのだ」
「はい」
私(長慶)は頷き、そして筆を取った。
差出人の名を書く。そこに記されたのは。
『四州近衛孫次郎長慶稀仁』
その場が少し静かになる。まだ慣れない名だった。
三好ではない。細川家臣でもない。帝の裁可によって認められた名前。
四州近衛家当主であり、天領四国管理者である、その名である。
私(長慶)はゆっくり書き進めた。
「讃岐国諸家へ」
「此度、帝の御許しを受け 四国統治の在り方につき 国人衆ならびに寺社方の意見を伺いたく候」
篠原長政が横から確認するかのように覗き込む。
海雲は一言
「上手いな」
篠原長政も
「呼び付けておりません」
「そうだな」
海雲と傅役の反応を見て、私(長慶)は続ける。
「ついては讃岐国分寺にて評議を開く。国の将来を共に考えたく候」
最後に署名。
『四州近衛孫次郎長慶稀仁』
海雲が満足そうに頷いた。
「良い」
「命令ではない。相談だ」
「はい」
それが重要だった。天領化は征服ではない。あくまで参加してもらう制度なのだ。
その後、少年たちを伴って別室へ移る。
そこには大きな長持が置かれていた。
部屋の空気が自然と引き締まる。
海雲自身が蓋を開ける。
中には『深い錦地』。そこには
日月輪。菊花。朝廷の威を示す旗。
『錦の御旗』
誰も声を出さない。少年たちも思わず姿勢を正した。
私(長慶)は静かにそれを見つめる。
前世で教科書の中にあったもの。だが今は違う、現実だ。
海雲が言う。
「持って行く」
「はい」
「ただし」
その声が少し厳しくなる。
「振り回すな」
「……はい」
「見せつけるためのものではない」
海雲は『錦の御旗』を見る。
「帝の信頼の証だ」
「脅しではない」
「忘れるな」
私(長慶)は深く頭を下げた。
「承知しております」
海雲は満足そうに頷いた。
「おそらく讃岐の者たちは驚くだろう」
「でしょうね」
篠原長政が苦笑する。無理もない。
阿波から来るのは軍勢ではない。とはいえ、二百名を超える集団。
国人嫡子たち、職人、学者、僧侶。そして海雲たち、その中心には…
帝から名を与えられた少年。
四州近衛孫次郎長慶稀仁。
さらに『錦の御旗』…
戦国の国人たちからすれば、これほど奇妙な一団は見たことがない。
出発前夜、徳島城の天守から阿波の平野を見下ろしながら、私(長慶)は一人考えていた。
讃岐の国人たちは自分たちを見て何を思うだろう。
警戒する? 様子を見る? 反発する? けれどそれでも構わない。
父、海雲が言った言葉を脳裏に浮かべる。
『まず聞け。教えるな。そこにいる人たちの声を聞け』
私(長慶)は確かに未来の知識は持っている。けれど、讃岐に住む人々の暮らしは、讃岐の人々の方が知っている。当然のことだ。
だからまず聞く、見る。港を、田を、市を、寺を、そして人を。
そうして初めて、天領化という仕組みを語る。
翌朝、阿波を出る一行の先頭には、まだ巻かれたままの錦の御旗があった。
それは戦の旗ではない。四国の未来を問うための旗だった。
そして讃岐国分寺では、書状を受け取った国人たちが、それぞれの思惑を胸に集まり始めていたのである。




