ノスリの見る夢 3
帰宅したらまず米を研ぐ習慣は、小学校時代からずっと続いている。その頃は昼の仕事だった母が、着替えてから慌てて夕食の支度をしてくれていた。米を研いで味噌汁の支度をしておけば、母は必ず喜んでくれた。リョウが中学校に入学するころ、高校進学のためのお金を貯めるのだと、母は仕事を夜に変えた。育ち盛りで常に空腹だったリョウが、肉を焼いたりカレーを作ったりを覚えたのは、必要に迫られてのことだ。母はきちんと夕食の支度をしておいてくれたが、それは下校してすぐ食べてしまっていたから。
小学校のときには既にバカだった。勉強するよりゲームをしたりボールを蹴ったりするほうが楽しかったし、入れられた塾は三回も行かないうちに授業について行けなくなった。(鉄に言わせれば、その前の段階から理解していなかったらしい)中学校の三年生になって、三者面談で行ける高校を提示されてそこに行く気になっていたのだが、そのころに初めてできた彼女が、こう言ったのだ。
「うちのお父さん、中卒なんだよ。田舎からひとりで出て来て、解体屋になったんだって」
彼女の家は大きくて、車を数台所持していた。招かれた家はリビングだけでリョウの澄んでいるアパート全部くらいの広さだ。彼女が小さい頃に社長になって(つまり独立して)仕事を広げたらしい。
職人なら、中卒でも金が稼げる! 面白くない学校に行くより、そっちのほうがいいじゃん! このときのリョウの頭の中には、人間としての器だとかハングリー精神だとか、そのなものはない。成績の悪い自分を見下していた奴よりも、上の立場に立てるって希望的観測のみ。
そして高校だけはと必死に進学させようとする親と担任教師を振り切り、進路担当の教師の奔走で早坂興業に入社したのだ。
何もなしに就職した自分にも、職人たちは優しかった。教えられたことを記入するノートに漢字が書けないことが鉄に知られ、教えられて添削されることさえ楽しかった。何よりも嫌いだった勉強は、進めていくと文章を読めるようになったり暗算で角度を出せたりで便利だと理解した。
気楽に勉強を教えてくれる鉄が、ものっすごく真面目で優秀なのだと気がついたのは、一年も経ってからだ。工業高校の建築科で受験できるすべての資格を余すことなく取得し、元請けと対等に打ち合わせてくる。比較的若手ばかりのチームのときは、ベテランを立てながらも主導権を握っているのは鉄だ。
あんな風に生まれたかった。頭が良くて家も金持ちで、友達も多くて。あんな風に、他人に一目置かれたかった。
鉄と行動を共にしていると、自分もそうなったような気になった。鉄が差を感じさせない程度に気を使いつつ、自分を指導してくれていたのは理解も感謝もしている。それなのに。
翌々日、早々に出社して車に同乗させてもらう先輩を待ちながら、会長に箸の持ち方について指導されていると、普段なら食事を供される休憩室には、顔を見せない鉄が現れた。リョウの顔を見つけ、近づいて来る。
「逃げたんじゃないのかよ」
中っ腹くらいの顔で、喧嘩を売られるのを待っているみたいな口ぶりだ。少し前のリョウなら、完全に震えていたろう。なのに今朝は怖くない。
「社長が来ていいって言ってくれたんです」
「挨拶は」
「おはようございます」
「そんだけかよ」
そこで会長の横やりが入る。
「メシ食ってるときに、横でゴチャゴチャ抜かすな。メシが冷める。リョウは食い終わったらとっとと動け。田村が積み込み始めてるぞ」
これ幸いと立ち上がって、茶碗を洗った。鉄のリョウに対する態度は、多分依然と変わっていない。変わったのは、リョウのほうだ。
自分の鉄に対する心情の変化に戸惑いながら、自分ではどうしようもできない。鉄を慕っているのは変わりがないのに、近づきたくない。何か理由があるんじゃないのだ。
きっかけは、なんとなくわかる。鉄に捕まった一昨日、あのときに上下関係ってやつを痛烈に感じた。そしてそれは、覆せないのだと。鉄はこれから先ずっとリョウの上にいて、それを鉄自身が自覚している。つまり早坂興業にいる限り、鉄はいつまでもリョウの指導者だ。
クロガネさんになりたくたって、俺はクロガネさんにはなれない。生まれも育ちも違うし、頭の中身も違うんだから。一緒にいたって、全然違う人間なんだから。
今まで気がつかなかったことが、一気に押し寄せてきた。もともと同じ場所になんていなかったのだ。指導する側と指導される側、指示する側とされる側。理解しているようで、まったく理解していなかった。ただ一方的に面倒を見てもらっていたのだ。
積み込みが終わったころ、社長が顔を出した。
「田村の仕事の早さは、段取り八割だからなあ。リョウ、しっかり見て勉強してこいよ」
「またまたぁ。社長、褒めるくらいなら特別手当ください」
リーダーの田村が軽く返す。
「いや、マジな話、田村なら工程一日早いから。敵うヤツ育てとかないと、田村が独立したら全部持ってかれるわ」
「独立なんてしませんよ、自分で営業やら経理やら」
それを聞くともなしに聞きながら、ふと考える。俺はこれって売り物がないなと。資格試験は年齢に達してないと思ってたけど、調べてもいない。言われたことをやって来ただけ。漢字を読むことすらおぼつかなかった自分は、何が書いてあるのかわからなかったけれども。
なんだ、これから何だってできるじゃん。俺はまだ、高校生の年齢なんだから。
移動の車の中で考え込んでいるリョウを、田村は気遣った。
「てっちゃんとケンカでもしたか」
「ケンカになんないっすよ。レベル違いすぎて」
「まあ、あれはデキがいいからなあ」
そのデキの良い人に、近付きたくないのは何故だ。自分のデキが悪いからか。
「おまえ、ずっとてっちゃんとべったりだったろ。おまえが休んでたとき、社長は来るまで待つって言ってんのに、てっちゃんは引っ張って来るっつって何回もアパート行ってたんだぞ」
知らなかった。自分はアルバイトに出ていたし、電話もメールもなかったから気にされていないと思っていたのに。
「おまえ、先月給料ないだろ。保険と年金の負担分、社長が払ってくれてんの知ってっか」
「……知りませんでした」
いろいろ知らなくて、世間知らずで。心配されていたことすら他人事で。これをクリアしなければ、大人になれないのか。
鉄と一緒にいれば、確かに楽だ。こちらから教えてくれと頼まなくても教えてくれるし、目下だと庇ってもらえる。自分は低学歴のド底辺だ。そこにコンプレックスを感じないようにしてもらって、このまま下にいれば良いはずだった。
クロガネさん、今日の仕事が終わったあとに会えれば、まず今日こそ詫びは入れます。勉強も教えてくれって言います。だけど俺、今にクロガネさんと対等になりますから。
田村と社長の会話は、上下じゃなかった。従業員と経営者の役割なだけで、どちらかが一方的にどちらかを頼ってたんじゃない。自分もそうなりたい。
俺はクロガネさんと対等になるんだ。
到着した現場の屋上を睨みながら、リョウは拳を握った。
後日、早坂興業の職人たちの会話で、自分が遅い反抗期だと知った。人格の独立のために必要な反発を、母親ではなく甘えられる兄貴分にぶつけているのだと指摘され、言葉もない。中学校二年生程度で経験する感情だからと弄り回され、保護者扱いの鉄に拳骨を喰らった。
「そんなに高卒になりたいなら、来年から通信の高校にでも行け。学校行く日は休ませてやるから」
社長にまで追い詰められ、リョウは急ピッチで学力補充を余儀なくされている。
fin.