夢の通い路
「――――――……」
声が聞こえる。
「………………き……」
懐かしいようなそうでないような、優しい笑いを含んだ声が呼ぶ。
「珠姫?」
誰の声だろうと思いながら重い目蓋を持ち上げた瞬間、強い日差しに射られて、咄嗟に目を閉じた。
そのしかめっ面がおかしかったのか声の持ち主がくすくすと笑う。珠姫がむっとすると、さらに楽しげな声が柔らかに耳をくすぐった。
「……人の顔を見て笑わないで」
「うん。ふふ、ごめんね」
その笑いに悪意がないとわかっていたから、珠姫はそれ以上言わず、眠気を振り切って起き上がった。
蘇芳一族本家本邸の、南庭を望む広庇だ。屋根の作る影と床板の冷たさが心地よくて、ついうたた寝をしてしまっていたらしい。いつの間にか蝉の声は大人しくなり、咲いていたはずの池の蓮も花を閉じていた。
髪を結んでいたはずが、元結は眠っている間にどこかへ失せてしまったようで、手の届く範囲には見当たらない。仕方なくぱらぱらと落ちかかる長い髪を後ろへまとめて払いながら、傍らに膝をついている彼に言った。
「おはよう、旭」
眩しい真紅の狩衣姿の旭は「おはよう、珠姫」と微笑んだ。
穏やかな物腰と整った顔立ち、素直さと好奇心にきらめく瞳を持つ、涼しく優しげな公達となった旭は、いまや多くの婦女子を魅了してやまない。もちろん幼少期からの周囲の期待を裏切ることなく優れた巫術師として成長し、父当主に代わって一族をまとめている。
「でも、おはようと言うにはずいぶん陽が高いような気がするけれどね」
そんな彼は、身近な相手にだけ、こうして子どものような軽口を叩く。そのことに珠姫は密かに優越感を覚えるのだ。
「陽が高かろうが低かろうが、休めるときは休まないと。そうでしょう?」
堂々と言ってのけると、旭が「無茶苦茶だなあ」と大仰に顔をしかめたので、珠姫は笑った。
いまの珠姫は、虐げられるままに這いつくばっていた幼子ではない。巫術師として認められ、楓屋敷を出て皇都の蘇芳一族本家本邸に暮らし、次期当主である旭を支える者の一人になったのだ。
(だから、もっと、強くならなくちゃ)
旭の周りには優れた巫術師が多くて、珠姫は絶対に足手まといになるものかといつも必死だ。宍雄に稽古をつけてもらい、書物や一族の記録から巫術を学び、旭に付き添って宮廷巫術師の仕事をして、夜になると密かに市中を回って人助けや妖祓いをすることもある。やるべきこともやりたいことも多すぎて時間が足りず、睡眠を削るのがすっかり癖になってしまった。
「くれぐれも無理をしてはいけないよ。人を助ける巫術のために、君自身が倒れてしまっては元も子もないんだからね」
それを知っているから、旭は眉を落として珠姫を案じてくれる。
「うん、わかってる。迷惑はかけないようにするよ。心配してくれてありがとう」
しかし旭の反応は芳しくない。
「……うーん……珠姫って、昔から返事だけはいいんだよねえ……」
「うっ」
読みかけの書物や調べ物のことを思い出してぎくりとしたが、慌てて愛想笑いで誤魔化した。しかし旭にはすべてお見通しで、「まったく、君って子は……」と仕方がなさそうにため息をつかれてしまった。
「そっ、それで? 旭はどうしてここにいるの?」
「ああ、君を呼びに来たんだよ。今日は玄夜殿と参内する予定だったよね?」
一族の垣根を超えた旭の親友の名を聞いて、珠姫はぎょっと飛び上がった。
「わ、忘れてた……! まずい、もうこんな時間……!」
「早く支度しておいで。玄夜殿が来たら僕が相手をしておくから」
「助かる! ありがとう、旭!」
じきにやってくるだろう玄夜の応対を旭に託して、珠姫は自室へ向かう。
参内するなら身支度を疎かにはできない。皇王陛下の御座す宮城での在り方は、珠姫自身のみならず、旭や、ともにいる玄夜を貶めることにも繋がってしまう。
(刀と巫術具は毎日調整しているから問題なし。髪と爪は手入れ済み。着物は、今日のために仕立てたあの墨染の、)
――墨染、の?
珠姫は何かに引き止められるように立ち止まった。
宮廷巫術師はそれぞれの守護竜に応じた貴色を身につける。
蘇芳一族は赤。蒼海一族が青。白鷺一族が白。そして墨月一族は黒。
真紅を纏う旭に倣えば、珠姫は中紅色や銀朱色辺りを用いたお仕着せになる。なのに。これは。
「――…………」
違う。これは、違う。
(違う……)
唇を噛み締めた珠姫が振り返った、その瞬間、周囲の景色がざあっと音を立てて流れ出した。
立ち入ったことのない蘇芳一族本家本邸も、過ごした覚えのない皇都の真夏の空も、蝉の声も睡蓮も何もかもが舞い散る枯葉に変わり、雪になり、花びらになって消えていく。
気付けば、すべてが滑らかな白に覆われた、遠近も高低も存在しない不可思議な場所に立っていた。
「…………旭……」
旭は、少し離れたところで微笑みを浮かべて佇んでいる。
珠姫の願望が作り出した、二十歳を過ぎたばかりの凛とした姿。それは辿り着けなかった未来そのものだ。
「旭……っ!」
溢れた花びらが、蛍が、木の葉が、雪が、駆け出そうとする珠姫を阻む。だから必死で声を張り上げた。
「旭! 私、巫術師になったよ!」
旭が言っていた宍雄師匠に弟子入りした。
必死に修行して、刀や弓や、体術も身につけて、妖祓いができるくらいになった。
「旭みたいになれないけど、頑張ってるから!」
知らないこともできないこともたくさんある。
馬はほとんど乗ったことがないからまだまだ苦手。大内裏にも出入りしているけれどわからないことばかり。ごく一般的な常識に欠けていたり価値観のずれを感じたりすることも未だ多い。可愛げがないのも相変わらずだ。
これからどんな壁が立ち塞がってくるのか。また凶つ神のような恐ろしいものと戦うことになるのか。
幾度となく襲い来るあの無力感に打ちのめされて、とうとう心を折られてしまわないか。
怖い。子どもの頃に感じていた心細さが消えない。
けれど。
「これからも頑張るから、だから……っ」
伝えたいことがたくさんあるのに、何一つとして言葉にならない。
締め付けられる胸を握りしめて喘いでいると、背後に人の気配を感じた。ゆるゆると振り返った珠姫は、途端にくしゃりと顔を歪めた。堪えていた涙が溢れて頬を伝っていく。
――白に染まった場所に立つ、漆黒。
巫術師が季節を呼んで見えたのだと言って、この国に四季を巡らせる者であろうとする人。
冷ややかに見えて優しくて。融通が利かないようで遊び心の塊だから、他人を振り回しては揶揄ってばかり。氷みたいだと思うときもあれば月のようだと感じることもある。私を『可愛い』と言うおかしな人。
私に、一人じゃないことを教えてくれた人。
「珠姫」
旭が呼んだ、そのときだった。珠姫の目の前を花びらが横切った。
白の世界に、どこからやってきた花びらが舞い踊る。散りゆく花は蛍火になり、光る夏虫はやがて鮮やかな落葉に変わった。瞬きのうちに白雪が降り、雪片は再び落花となる。
四竜が愛する天願国の四季が巡っている。
その美しい季節の断片の中で、旭が笑って手を振っていた。
「いってらっしゃい」
静かに頬を濡らす涙が、その瞬間、再び大粒の雫となって流れ落ちた。
「旭!」
旭の姿がみるみる消されていく光景に別れを予感して、珠姫はくしゃくしゃの顔で涙を零しながら両手で胸を掻きむしって嗚咽する。
夢に現れるのは夢の主が強い思いを抱いている人。
あるいは、夢の主を強く思っている人だという。
珠姫の思いだけではだめだった。旭の思いがあってこの夢になった。たったいまそれがわかった。
白の世界がそれ以上の眩しい光に満たされる。夢が終わる。終わってしまう。珠姫も旭も、四季の欠片も、すべてが薄れて消えていく。夢の通い路が閉ざされる。
「――会いにきてくれて、ありがとう……!」
そして。
また、あなたのいない世界の朝が来る。




