朝の娘 1
「――――……」
目を開けた途端に、眦から涙が流れ落ちた。
泣き濡れた目に夏の朝日が染みて、痛くて痛くてたまらなくて、両手で顔を覆った。吐く呼吸がどうしようもなく震える。
(……起きなくちゃ)
しばらくじっとしていたけれど、いつまでもこうしてはいられない。
鼻を啜りながら汚れた頬や目元を拭って、身を起こす。目は熱っぽく、赤くなっていることが想像できた。目蓋の腫れだけでなく鼻周りも赤らんでいそうだ。よりにもよってこんな日に、いや今日だからこそあんな夢を見たのか。
「あるじ様」
部屋の外から珠姫に呼びかける声がする。
「おはようございます。お目覚めでしょうか? お支度のお手伝いに参りました」
しずしずと入室してきた女房は寝具の上に座り込む珠姫の顔を見た瞬間、ぽかんと口を開けて石と化したかと思うと、邸内に轟くほどに絶叫した。
「ちょっ、ちょっと嘘でしょ!? 珠! いったいどうしたのよその顔は――!?」
主人付き女房の威厳をかなぐり捨てて飛びついてきた桃子に、珠姫は「本当にごめん……」と平身低頭謝罪する。小言を受けて「はい」「はい、ごめんなさい」「気をつけます」と肩を縮める姿は、主人というより幼い子どものようだっただろう。
今日もよく晴れた皇都の朝空に、夏蝉の声が響いていた。
天願国は無事に赤竜の司る夏を迎えた。
凶つ神――長らく蘇芳一族を食い物にしてきた狗神は討伐され、穢された地も元に戻った。珠姫が借り受けた四竜の力が大地や水を清め祓い、傷付いた森を再生して、戦いの中で負傷した巫術師たちをも癒したのだ。
しかし、後方支援に回っていた冬路たちの方では多数の負傷者が出ていたらしい。後にこの出来事を知った冬路が「こっちも治してほしかった……!」とどうにもならないことを嘆いていた、と玄夜が言っていた。
珠姫や玄夜たちが狗神と交戦していた頃、楓屋敷では冬路たちによって蘇芳一族と関係者の聞き取りと家宅捜索が行われていた。
だがこのとき梅乃と緋佐子が騒ぎを起こした。本妻と愛人の立場で取っ組み合いを始めたのだという。互いの顔面を傷付けて髪を掴み合う争いに、監視に当たっていた者が対応していたが、この混乱に乗じて朱葉が逃げ出した。主筋の女性だからと、丹造や一族の巫術師たちのように拘束せずに一室にまとめていたことが仇となったのだった。
運良く逃れた朱葉は母屋へ向かっていた。このままでは一族が破滅する。それを救えるのは丹造だけ、当主なのだから丁重に母屋の塗籠に閉じ込められているはずだと考えたらしい。その読みは的中し、朱葉はこちらにも置かれていた監視役を出し抜こうとし、当然失敗してすぐに捕らえられた。だがここで誰も予想し得なかったことが起こった。
断片的に続いていた雷、それが猛り狂う光となって楓屋敷を襲ったのだ。
この落雷で小規模ながら火災が発生し、冬路たちが己の身を守りつつ消火と関係者の安全確保に奔走している間に、丹造が姿を消した。恐らく狗神が手を回したのだろうと冬路は言った。
そうして丹造は珠姫たちの前に姿を現し、その後の衝突へと繋がったというわけだった。
目まぐるしく日々が過ぎ、夏の行事である乞巧奠と盂蘭盆を終えたいまは、平穏そのものの日々が続いている。
それが巫術師たちの尽力によるものだということは、市井の人々にはさほど知られていない。
そういう時代なのだろう。彼らにとって重要なのは、毎日の生活のことや自分や家族の幸福であって、都から離れたところで荒れ狂っていた凶つ神や宮廷巫術師の職を追われた蘇芳一族については、暇つぶしや娯楽の噂話にする程度のものなのだ。
「あるじ様? お食事をしながら文を読むのはお止めなさいませ」
女房らしい澄まし顔の桃子に注意され、珠姫は「ご、ごめん……」と箸を持ちながら目を通していた料紙を文箱に戻して恐る恐る言った。
「行儀が悪いのはわかってるんだけど、早めに読んで返事を書かないといけないんだ。特に今日は……」
「ええ、存じております。あの日以来、休む暇もないくらい忙しくしていらっしゃいましたもの」
「ですが」と言って、桃子は半目になった。
「『あれもこれもと抱え込むので決して無理はさせぬよう。時には乱暴に取り上げてよし。とりわけ任官の儀の当日は』――と、墨月様からご指示いただいております」
後見人の意向を告げられた珠姫がこれ以上の言い訳を飲み込んだのは言うまでもない。
凶つ神討伐の後、珠姫は墨染邸を出た。
旭の仇を討ち、蘇芳一族の罪を暴いて、珠姫の復讐は終わった。ひた隠しにしてきた本当の名も顔も性別も、蘇芳一族との関わりも、この件に関わった者たちの知るところとなった。墨染邸の使用人仲間たちに素性を明かしたときは、随身所と術師所からそれぞれ人が駆けつけてくるほどの騒ぎになってしまった。
もういままで通りではいられない。この辺りが引き際だ。
新しい土地に行こう、辻術師として暮らしていこうと思った。
しかし珠姫を引き留めたのは、なんの因果か、蘇芳一族の存在だった。
――空位となった赤竜を司る宮廷巫術師に、珠姫が据えられることになったのだ。
ただし、これは一時的なもので、臨時や代理と呼ばれる立場だ。
宮廷巫術師の地位は長らく名家一族が独占しており、交代の際も類縁の一族が選ばれることが伝統と化している。だが今回のように一家一門が罪を犯した場合はただ選び出すだけとはいかない。慎重に精査、検討する必要があり、相応の時間がかかる。しかしこの間にも季節折々の儀式は欠かさず執り行っていかねばならない。したがって、新しい宮廷巫術師が任命されるまでの繋ぎ役が必要となる。
そうして選ばれたのが、蘇芳一族の血を引きながら巫術師の使命を果たさんとした珠姫だ。
そしてその後見人に立候補したのが墨月一族、すなわち玄夜なのだった。
「抱え込むなって言われても、仕事が山積みなんだもの。わからないことも多いし……」
「そのために後見人がいるんでしょう。もっと頼ればいいんです」
「ただでさえ便宜を図ってもらってるのにこれ以上甘えられないよ。別邸を譲っていただいたり、桃子たち墨染邸の人を付けてくれたり。着るものや食べるものまで」
一時的とはいえ宮廷巫術師の立場に見合った生活をしなければならない、というのが玄夜の主張だった。そのため所有していた邸を珠姫に譲り渡し、食料や衣服を援助して、さらには暮らしを支える使用人を墨染邸から出してくれた。桃子が墨染邸から珠姫のものとなった邸の女房になったのもこのためだ。至れり尽くせりとはこのことだろう。
(宮廷巫術師を拝命することにしたのは、ずっと助けてもらっていた恩返しができると思ったからだったのに……)
巫術師が四季を呼び招くように見えたのだと言っていた、彼。
当時正体不明だった珠姫に協力を求めるほど巫術師の使命を果たさんとしていた彼を、改めて助けることができるのではないかと思ったのが、指名を受け入れることにした理由だ。ただの中継ぎとはいえ、早く自立したい、頼りにしてもらえるようになりたいと思うのは当然のことだろう。
「私に言わせると、抱え込みすぎているのはあちらの方だからね。後ろ盾になるからってここまでしなくてもいいでしょう」
「…………ねえ……それ、本気で言ってる……?」
珠姫はきょとんと桃子を見返した。常識に少々疎い珠姫の相談役でもある桃子は「そういう子だったわ……」と仕方なさそうに苦笑混じりのため息をつく。
「身分の高い男性が、未婚の女に家や着物を贈る意味を考えてみなさいよ」
「……え?」
意味、なんて、その言い方だとまるで――。
まごつく珠姫に桃子は「まったく、羨ましいったら」と肩を竦める。これではどちらが主人なのやら。少なくとも、珠姫はこれから桃子に頭が上がらないだろうことだけは確かだった。
そして、巳の正刻(十時)頃。
珠姫の邸、と呼べるほど住み慣れていない邸宅に墨月一族の立派な車がやってきた。降りてきたのは言うまでもなく、漆黒の衣を纏った玄夜だった。
「おはよう、珠姫。昨夜はよく眠れたかい……どうした? その顔は」
「いえ、なんでも」と答えるが、玄夜の顔を直視できない時点で思うところがあるのは明らかだ。案の定玄夜は納得しきれていない面持ちで眉を跳ね上げた。
(うう、だって、桃子が変なことを言うから……!)
身分や家柄、世代にもよるが、贈り物、特に男女間におけるそれには特別な意味を含ませる場合がある。
衣服は、愛の告白。
家は愛の証、すなわち、夫婦関係の成立。
必要なものだが珠姫には準備できない、だから代わりに揃えたまで、厚意だということはわかっている。しかし意識しないでいられるわけがない。
「珠姫。何があった?」
「何もありません。……な、何もありませんってば!」
「お二人とも」
じりじりと迫ってくる玄夜と言い合うことを避けられたのは、できる従者の椋人のおかげだった。「そろそろ参りませんと」と言われ、今日ばかりは時間がないと理解している玄夜も「そうだな」と引き下がり、珠姫を馬車へと促した。初めての出番となる真新しい馬車も墨月一族から任官祝いとして贈られたものだ。
向かう先は、宮城――珠姫は、今日、赤竜を奉じる宮廷巫術師となる。




