天命と赦しのとき 5
「珠姫」
立ち上がった珠姫に、玄夜がいつの間にか弾き飛ばされてしまっていた愛刀を差し出した。
「ありがとうございます」
頬を濡らす涙を拭ってそれを受け取る。
玄夜と、彼の後ろに控えている巫術師たちは厳粛な面持ちでこちらを見つめている。特に一族の者たちは畏れを隠しきれていないが、無理からぬことだろう。
巫術師は遡れば神意を聞く神官だ。四竜の存在が遠ざかり巫術を使う力が弱まっても、万物に神を感じて畏れ敬うことは魂に刻まれている。
穢れを吹き払う風、大地を包む光、傷を癒やす力は神の意思だ。――天命は、珠姫に下された。
「狗神を討ちます」
玄夜は揺れる瞳を細めて頷いた。そして、唇の端にかすかな笑みを浮かべた。
「君は一人じゃない」
珠姫ははっと目を見開いた。
そうして溢れ出しそうになる涙を堪えて、ぐっと力強く頷いた。
「はい」
溢れる光の流れる先、深い闇の中から、禍々しい咆哮が轟く。
みしみし、ばきばきと森が壊れる音、地響きがして、払拭されたはずの穢れが流れ込んでくる。まるで珠姫を手招いているかのようだ。
「――――」
心を鎮める呼吸を一つ。
そして、駆け出した。春の燕のように。
光の粒子が散る。踏み出す一歩一歩が闇を裂く軌跡になる。身体が軽い。息をする度に力が満ちて、殻を破るように別のものへと変わっていく気がした。
すべては、人を惑わし食い荒らした悪しきものを、森を枯らした太妖を、巫術師の在り方を嘲笑った凶つ神を討つために。
「――[此の天願に仰ぎ奉る 掛けまくも畏き 四竜を拝み奉りて 恐み恐みも白さく]――」
最初の一閃は、吹き荒れる夏嵐のごとく。
緑の葉、朽葉、光を巻き込んだ力の剣は闇を行く凶つ神を斬り伏せた。
『ぎあぁああぁっ!?』
光る白刃は秋の稲妻のごとく。
斬撃を受けて這いつくばる狗神を、返す刀で斬り上げる。左後ろ脚を切断した勢いで巨躯が鞠のように飛び跳ねた。狗神流に表現するなら『面白いほどに飛びよる』だ。
「――[四竜神の広き厚き御恵みを拝み奉り 直き正しき真心もちて 守らせ給い幸えさせ給え]――」
『おのっ、おのれおのれおのれぇええっ!!』
狗神が大きく身をよじりながら無茶苦茶に力を放つ。
周囲の木々は切り刻まれ、薙ぎ払われ、削られて、みしみしと音を立てながら倒れていく。その下を潜り抜けるようにしながら珠姫は怯むことなく狗神に迫り、暴れ狂う四肢のうち残っていた右前脚と後脚を一度に斬り払った。
『いぎゃあああぁあぁ!!』
「――[此く出でし禍事罪穢 一切衆生の愚かなる心有らんをば 祓えさせ給い清めさせ給え]――」
巫術は雪のように清く無情に。
斬り落とした脚が、巫術の白い炎によって跡形もなく焼却される。
『やめろおぉおおォオ!!』
悶え苦しむ狗神はなんとしても一矢報いようとして穢れた力を振るったが、死に物狂いの抵抗も四竜の加護を受けた珠姫には届かない。
まともに逃げ出すこともできなくなった狗神が、恐怖に歪んだ瞳に珠姫を映す。
『見るな、その目で我を見るなぁあァ!』
如何なる不浄も、珠姫の眼差し一つで浄化される。
一歩、また一歩と珠姫が近付いていくと、じゅうっと音がして狗神の目が焼けた。
『うがぁあっ、ぐ、ぁああ!』
このままでは命がないと悟ったのか、狗神は残る力を振り絞って新しい脚を再生した。
だが力が不足していたのか、新たな四肢は元より二回り以上小さく、頭部や胴とまったく釣り合っていない。当然立ち上がることすらできず、狗神は駄々をこねるように身悶えして嘆いた。
『何故だ、何故お前が、卑小な存在に我が死命を握られねばならぬ!?』
咆哮が森を揺らす。神の名を冠する威光はそこになく、見苦しく無様で、哀れだった。
珠姫はその目前に刀を突き立てると、両の手で印を組む。
「――[青竜 白竜 赤竜 黒竜]――」
陰と陽。光と影。
春の花。夏の叢雲。秋の豊穣。冬の白雪。
流れる水、息づく木々、命の炎、馥郁たる大地、微睡む鉱物。巡り生まれ時に相剋する力。
この世のあらゆるものが宿す命の根源が、四竜の守りを与えられた珠姫の呼びかけに応じて寄り集まる。
『嫌だ、嫌だ嫌だ!! 己がために生きようとするものに、なにゆえこのようなさだめを与えられるのか!』
この世が楽土ではないから。
生きることは苦しい。この世は決して思い通りにはならない。それゆえ祈るのだ。
「祈りなさい」と珠姫は恐れ嘆く狗神に囁いた。
「私も、お前のために祈るから」
祓い清めてください。お守りください。幸いに導いてください――無力で、愚かで、過ちを犯し、罪を背負っていても、清く明るく直く正しい道を見失うことのないように。
そして願わくは、禊を終えて、この国を守る力の一つとなれるように。
「――[御前に集わる万物のために尽くさしめ給えと 恐み恐みも白す]――」
美しくも畏ろしい光が天地を満たす。
すべて清められていけ。狗神も、穢された大地も傷付いた緑も、贖罪を生きる珠姫も。
間違えて、正して、また新たに生き直していく――私たちが生きるのは、それが許される世界なのだから。




