天命と赦しのとき 4
(……旭?)
閉じかけていた目を開けると、枯れ枝の格子の向こうに膝をつく男の姿がある。
「――……珠姫! 聞こえるか、珠姫!」
ああ、と珠姫は安堵の息を零した。
「……よかった……玄夜様……目が、覚めて……」
「あんな結界で人を閉じ込めておいてよくも言えたな。おかげでここまで回復したよ」
ぴしゃりと打つような捻くれた言葉は予想通りで、珠姫は、ふふ、と息だけで笑う。
「珠姫、目を閉じるな」
冷たく命じる声はどこか必死だ。
しかし流れる血の量に伴って珠姫の意識も闇へと流れ出していく。押し流されてしまう前にこれだけは伝えなければと、動かない手の代わりに、薄く開いた目で、闇に沈む森の方向を示した。
「枯れ木を、辿って……狗神はそこに……私は、大丈夫ですから……」
「しっかりしろ! すぐに助ける……!」
目を閉じる。すると珠姫の意識に語りかける声がした。
――苦しいだろう。辛いだろう。終わりの見えぬ戦いに疲れたことだろう。可哀想に……四竜の下僕になったばかりに、このような思いをして。
穢れや瘴気と呼ばれるものは身体を弱らせ、正常な思考や判断力を奪う。
憐れみの言葉に、そうだね、と呟く。
――哀れな子。見返ることのない四竜のためにこれ以上傷付く必要はない。お前はお前のために生きるべきだ。我が身を愛し守ることは決して罪ではないのだから。
すべてわかっているとでもいうような優しい囁きに、身を委ねてしまいそうになる。
しかしそのとき思い浮かんだのは、旭のことだった。
「……いまになって……旭の気持ちがわかった気がする……」
考えているだけなのか声に出しているのか自覚できないまま、浮かんだままを口にする。
「答え合わせは、できないけれど……だから……ただの、想像で……願望、だけれど……」
あの日。あの夜。あのとき。
自らの出生の秘密と一族の罪を知らされても、己を失わずにいた。
使命を忘れず、善心に従って、たった一人で狗神の眷属に戦いを挑んだ。
命と引き換えにしても、最期まで、珠姫を見捨てなかった。
(ねえ、旭。信じていいかな。きっとあなたはいまの私と同じ気持ちだったんだって――最後の瞬間まで天願の国の巫術師でいたかったんだって)
人のために何かしようとする者に四竜は報いてくださる。その証が巫術師だと信じていたいから。
「珠姫! 意識を保て!」
玄夜が珠姫に防護の結界を張る。身体に突き刺さる枯れ木を取り除くためのものだろう。
そのうち「ご当主様!」とあちこちに散らばっていた巫術師たちが一人二人と駆けつけてきた。
「すぐに治癒を!」
「枝を取り除いた順にかけろ!」
狗神の追討も叶わず巫術も使えず、まともに動けない珠姫にできるのは、祈ることだけ。
(かみさま……神様、四柱の竜の神様)
私は、弱くて……とても弱くて。守りたいものを守り通すことができません。
「珠姫、珠姫!」
「穢れを取り込みすぎたのか」
「浄化を行います!」
それでも、諦めたくないんです。
私を助けようとしてくれたり、離れたところにいる仲間を心配したり、壊れた森を見て心を痛めたり。
優しい人たち、ばかりではないけれど。私も、優しくないけれど。
守りたい、です。大事にしたいです。
強くなりたいです。
「……ぅ、ぐ……っ」
覆い被さっている木が揺れる。それが傷を抉る痛みになって落ちかけていた意識が一瞬浮き上がる。
だがすぐに「狗神を追跡」「後衛に」「早く救出」「穢れが」「治療を始め」と玄夜たちの忙しない会話が断片的になる。焦燥と緊張感を感じているのに、もがくことすらできず意識の水底に埋もれていく自分が不甲斐ない。
祈ることしか、できない。
だから、祈りこそが、いまの珠姫のたった一つの力だ。
(私は巫術師だから、心を込めて、お祈りをします)
みんなが、澄んだ心と明るい希望を抱いて、真っ直ぐありのままに生きていけますように。
春が賑やかでありますように。
夏が眩しくありますように。
秋が豊かでありますように。
冬が清らかでありますように。
私たちの国が、いついつまでも、美しくありますように。
「珠姫!」
私の本当の名を呼ぶこの人が、彼が慈しみ守りたいと願うこの国が、好きです。
(あなた方が愛おしむものを愛することをお許しください。そして、もし叶うなら)
この夜の終わりを。
必ず来る朝を、光り輝く夜明けをもたらすために。
(私に、あなた方の愛するものを守る力をお貸しください――)
――最初は、小さな風だった。
誰かが息を吐いたような、かすかに笑みを零したような、耳を澄ませていなければ感じられないほのかな息吹。
ただ人は感じ取れないそれに気付いたのは珠姫、少し遅れて玄夜だった。
(……誰?)
呼ばれた気がして珠姫は目を開く。
玄夜を呼ぶ「ご当主様?」という声がしたが、間を置かずに「うわっ!?」「なんだこれ!」と巫術師たちの焦る声が続いた。
枯れ果てた植物と穢れと闇に覆われていた大地から、砂金のように光り輝く粒子が湧き上がっていた。
光は穢れを払い、輝く波となってみるみるうちに壊れた森に広がっていく。珠姫の身体を貫く木をも包み込み、小さな輝きに変えると、ぱっ、と舞い散った。
(……蛍、みたい)
旭と過ごした夏の夜は、こんな風にたくさんの蛍が飛んでいたものだった。
光が昇る天に、解放された手を差し伸べる。
土埃と血に汚れた手のひら、爪は割れ、腕には大小の傷の他に打ち身もあった。それがたちどころに癒やされていくのを目の当たりにして、珠姫は息を飲んだ。見開いた目から涙が溢れた。
許された、そして、使命を与えられたとわかったからだった。




