天命と赦しのとき 2
「――――」
奈落のような闇、迫る牙。
そこに自ら飲み込まれていこうとする赤黒い獣。
近付く足音、伸ばされる手、涼やかな顔を決死の表情に歪ませた玄夜が駆けてくる。
止まったようだった珠姫の時間は、全身を襲った衝撃で再び動き出した。
「うっ! ぁ、っぐ……!」
なりふり構わず飛び込んできた玄夜に跳ね飛ばされ、珠姫は受け身を取り損なって地面を滑った。隆起した木の根で背中を打ち、不揃いな石が身体のあちこちに突き刺さって、痛みに一瞬息が止まる。
「ぅ、く……っ、……玄夜、様……玄夜様、ご無事ですか!?」
身を起こすと、覆い被さっていた玄夜の身体がずるりと落ちる。意識を失っている彼を咄嗟に抱き止めてさらに呼びかけようとした珠姫は、強烈な胸騒ぎを覚えて動きを止めた。
心が波立つ。嫌な予感がする。何か途方もなく不吉なことが起ころうとしている。
自分の手が熱いもので濡れていると気付いたのは、そのときだった。
「あ」
玄夜を抱えていた右手のひらは、赤い。
「……あ……あ、ぁ……」
彼の背から溢れる血が、珠姫の手を染めていた。
「ああああぁああ――!!」
戦慄が、絶叫となって迸った。
「玄夜様、玄夜様!」と縋り付くように呼んで揺さぶり、覆されない現実にがたがたと全身を震わせて、嫌だ嫌だと駄々をこねるように首を振る。
「あああぁっ! 嫌だ、嘘、嘘っ、こんな……あぁ、こんな……!」
『は、はは、ははは、はははは!』
取り乱す珠姫を、高らかな嘲笑が打ちのめす。
狗神は取り戻した巨躯で珠姫たちを見下ろし、尾を振って穢れを撒き散らして、枯れゆく森に、絶える命に歓喜の声を上げている。
眷属が丹造を喰らって力を得たように、狗神はその眷属を贄として力を取り戻したのだった。
(私のせいだ)
後悔を叫ぶ胸にたまらず玄夜を抱きしめる。
(信じてと言ったのに! 任せると言われたのに!)
蘇芳丹造を死なせた。そればかりか生贄にして狗神に力を与えてしまった。
玄夜に深傷を負わせた。
なのに、珠姫は無事でいる。
(私は、また……!)
打ちひしがれる間にも緑は枯れ、穢れが満ちていく。死を迎えた小さくささやかな命の亡骸が、かさり、ぱさり、と乾いた音を立てて珠姫たちに降り注いだ。
「――…………」
我が身を抱くように身を縮めていたが、消えてしまいそうな呼び声を聞いてはっと身を起こす。
抱えた腕の中で、玄夜が薄く目を開けていた。
「玄夜様! げん、」
「………君、の」
――君の望むように。
逃げてもいい。戦ってもいい。やりたいことをやれ。己の心に従って。
そうして玄夜は目を閉じた。振り絞った気力が尽きて意識を失ったのだ。
それを見つめる珠姫の瞳の恐れと不安の影が薄れて、強い意志の光が生じたのは、まもなくのことだった。
(――……何をやっているんだ、私は!)
己の頬を打つように心の中で叫んだ。
玄夜の顔の汚れを拭って状態を確認する珠姫の手は、もう震えてはいない――呼吸が弱い。傷の痛みと失血、穢れの影響か。背中の傷は熱と裂創を同時に加えたものに似ている。狗神の妖術だろう。巫術で防ぐより身を呈す方が早いと判断したのだと想像できた。
深く傷付いた状態で穢れに触れ続けると命に関わる。一刻も早く適切な治療を施さなければならない。
葉が落ちた木々の向こうは、穢れのせいで夜よりも深い闇に覆われている。
狗神はさらに力を増して、尾が一本から三本になっていた。新しい玩具を手に入れた童子のように夢中で力を奮って、骨のような樹木を倒し、地を削り、新たな穢れを撒き散らしてはけたけたと笑う。珠姫や玄夜のことなどすっかり忘れて、自らの支配域を広げるのに没頭している。
(眷属に生贄を与えて、然るべきときにその眷属を喰らって真の姿と力を顕す。それがこの狗神の正体か)
想定以上に狡猾で、強い。神の名を冠するにふさわしい大妖だ。
対して、残存する直接的な戦力は珠姫一人。要救助者である玄夜がいる。戦況は不明。救援は期待できず、事前に備えていた巫術の発動は不可能と考えられ、他の巫術師たちの消息と安否もわからない。
(朝になれば状況が変わる)
夜明けを迎える頃に人里の監視をしている巫術師たちが次の行動に出ることになっている。討伐完了の知らせがない場合は人々を安全な場所に避難させるとともに、皇都に救援を要請する。皇都には墨月一族先代当主率いる別働隊がおり、さらに都の守護についている白鷺一族もいる。珠姫たちが凶つ神に敗北した場合、彼らが万全を期して征伐を行うだろう。この国がこのまま滅ぼされることはない。
(でも)
けれどその間に、大地と水は穢される。
罪なき生き物たちは喰われ、大小の命が失われるだろう。
人は天地の恵みを失い、それらを取り戻すのに少なくはない月日をかけることになる。
「…………」
珠姫は傷に障らないように気を付けて玄夜をそっと横たえると、彼が携帯していた符や石のいくつかを使って治癒の巫術を施し、緻密な目眩しと堅固な結界を張り巡らせた。
(守りたいのか閉じ込めたいのかわからない、なんて言いそうだ)
「敵を討つのに何故まず味方の結界を破らねばならないんだ」と皮肉っぽく言う玄夜を想像して、ふ、と笑みが溢れる。
そして一瞬のうちに微笑みを拭い去ると、再び刀を手に立ち上がった。
(私は、弱い。それなりの巫術師にはなったけれど、それだけ)
珠姫一人で狗神を倒すことはできない。
でも、だからと言って、それが戦わなくていい理由にはならない。
(私は、巫術師)
脅威を退けられる強さを持ち、無力な者に寄り添い、戦う、人々のための巫術師。
助けたいと祈り、守りたいと願って、神威を借り受ける四竜の代行者。
「――[四竜の大前に 恐み恐みも白す]」
地を蹴った。
地べたを這いつくばり、汚れ、深い悲哀と憎悪に身を浸していても、天も地も常にあるがまま、眩く美しく、ときに静かに移ろいゆく。
それを守りたいと思った。
その心に従おうと決めた。
前へ前へと進む、その度に枯れた葉が砕ける。脆い命を踏みしだく感触は泣きたいほどに軽い。
緑や大地をこれ以上犠牲にしないために、珠姫は心を写す刃を振り上げた。




