天命と赦しのとき 1
浄祓の光が消える。
穢された花や枝葉は一掃され、澱んだ空気は消えて、緑の匂いがする夜風が再び吹いていた。
「……っは…………はぁ……は…………」
目眩を覚えて、珠姫は膝をついた。武器や巫術を使うなんて当たり前のことが、不浄の気が満ちる場所だっただけで心身にかなりの負担をかけていた。
それだけの巫術を受けた丹造は地に伏している。全身に火傷を負い、ひゅうひゅうとか細い呼吸を繰り返していた。狗神の力を纏っていたことで身体中を焼かれることになったのだ。
(早く、玄夜様を、狗神を追いかけないと)
まだ戦いは終わっていない。流れる汗を拭い、肩で息をしながら、珠姫は崩れ落ちそうになる己を叱咤して玄夜が走り去った方へ足を向けた。
「………………」
声とも呼べないかすかな音がした。
振り返ると、瀕死の丹造が、細い笛のような呼吸音が乱してかすかに口を動かしている。だがほとんど音になっておらずよく聞こえない。恨み言かそれとも呪いの言葉か、意識朦朧としていてなおも悪態を吐いているのだとしたら救いようがない。
呆れ返り、見下げ果てて、二度と構うまいと駆け出したそのときだった。
「――っ!?」
禍々しい力が爆ぜた。
「…………蘇芳は……終わる……ああ、ああ……終わってしまう…………」
冷たく熱い憎悪の気配が珠姫の背をぞわりと撫で上げる。
素早く身を翻して刃を構えた先で、熱に浮かされたように丹造が呟いていた。見れば見るほど奇妙な状態だった。呼吸もままならない重傷で、手足はだらりと垂れ下がって力が入っているように思えないのに、しっかりとそこに立っているのだ。見えない糸に吊られているかのようだ。
「…………蘇芳が……終わる…………」
何かが起こっている。不穏なものを感じて、珠姫は構えた刃を巫術をまとわせた。
ここで終わらせる。
覚悟を決めて、丹造を根の国へ送る刃を振るう。
「ならば――すべて、すべてすべてすべてっ! 道連れにしてやるッ!!」
丹造がかっと見開いた目から血の涙を流しながら咆哮した。
妖術の赤い犬が現れる。
来る、と珠姫はいち早く迎撃、防御態勢に入った。だが宣詞も閃かせた刃も、次の瞬間には無意味なものになった。
赤い犬が牙を剥いたのは、珠姫でも他の何かでもなく、術者である丹造自身だったからだ。
「ぃぎゃぁああっ!!」
汚れた牙が太い手足に食い込む。咥えた肉が引き千切られる。血臭が立ち込める、おぞましい光景が繰り広げられていく。
(……自分を、食わせて……!?)
この世ならざるものが飢えを満たそうと人間をがつがつと貪り食う光景に、丹造自らそうしたという事実に、珠姫は青ざめて立ち尽くす。
しかし、そう呆然としていられる状況ではなかった。
断末魔か笑い声かわからない声が響くなか、少しずつ小さくなっていくような丹造とは対照的に、赤い犬は獲物を食らった分だけ成長を始めていた。
痩せた身体は長く、牙は太く大きく、赤い毛は黒く豊かに生え、尾は体躯に等しくなる。赤い犬は狼に、狼はこの世の理を外れた獣に変わっていく。
その黒い巨体を、不揃いの牙を、腐臭を、蛇のようにのたうつ輪郭を知っている。
「お前は――!」
――旭を殺した、そして珠姫が倒した、狗神の眷属。
同じ存在ではないとわかっていても熾火のようだった怒りと憎悪が一息に燃え上がった。
しかし感情のままに振り切った刃が届くはずはない。力任せの一閃を軽々と避けた眷属は珠姫を嘲笑うように森の奥へ走り去っていく。
「っ、待て!」
後を追って森の奥へ飛び込んだ。
先ほどよりも濃い闇が視界を潰す。だが眷属の放つ獣と穢れの臭気のおかげで見失うことはない。そのうち目が慣れて周囲の様子がわかるようになる。
「……っ」
森は、荒れていた。
切り落とされたと思しき枝や、水を撒いた痕跡、何かが焦げついた跡があちこちに見られる。戦いが続いているのだと考える間にも、遠くの方で巫術の光がちかちかと瞬いた。
緑溢れる青い森は、旭と短い夏を過ごした思い出の場所は、巫術師と妖の戦場になってしまった。
しかしそんな感傷は即刻振り払わなければならなかった。狗神を逃し、眷属たちをのさばらせることになれば、穢れはこの森のみならず天願の国の内に広がってしまう。それだけは絶対に防がねばならない。
(早くどうにかしないと、狗神本体が……玄夜様は……!)
暗闇から突然出現したように見えた草を咄嗟に払う。薄刃となった葉が手を切った。痛みでわずかによろめいたせいで樹幹に思いきり肩をぶつけてしまう。鈍い痛みがじんと広がって腕が痺れる。だが止まらない。止まってはならない。
(捉えた!)
珠姫の必死の猛追がついに届く。
四竜に呼びかける――敵を打ち倒す力を、この手では届かない距離を埋める手助けを、どうかお与えください。
「[祓え給]、」
「珠姫!!」
割れ鐘めいた呼び声がした。
そのとき、珠姫の正面には、追跡していた眷属ではなく、狗神の顎の奈落があった。




