光を呪い闇を祝うもの 1
夕暮れ、咲き上る立葵の赤い花は、まるで血に染まったように見える。
蘇芳一族の領地が南に位置するからか、それとも凶つ神の影響なのか、花期には少し早いはずなのに、楓屋敷から離れた森の奥では立葵が他の野花を飲み込む勢いで咲き乱れていた。
湿り気を帯びた風に高く伸びた花がゆらゆらと揺れる様は幽玄のはずだが、いまだけは不吉に感じられてならない。
(生贄を送り出す花、か)
この先ずっと立葵を見る度にこのことを思い出すのだろう。花に罪はないが迷惑なことだった。
ゆっくりと日が暮れていく。
周囲が闇に包まれてしまう前に、珠姫は手早く支度を進めていった。
長膳に供えたるは米、塩、水と酒。締めたそのままの鶏、その卵。干し無花果。
飾りは鏡と燭台。燭台には火を入れず、鏡は曇っている上に割れている。その分、錨草の紫が異彩を放っていた。爪のような花は見慣れぬ生き物めいてひどく不気味だ。
そして最後は野葡萄改め犬葡萄。一束を膳の上に、もう一束は自ら抱える。
こうして、玄夜が行き着いた古い記録や丹造や丹久郎の証言をもとにした、献饌の祭壇が整った。
(来い)
――凶つ神は必ず来る。
従えていた蘇芳一族が捕らわれたこと、別の者が儀式を行ったことを知られたら、罠だと悟られるのではないか、という懸念を玄夜ははっきりと否定した。
誘き出されているとしても、戦うとわかっていても、正しい儀式に則った呼びかけには応じる義務がある。それが神や妖と呼ばれる存在だからだ。影に紛れる妖が、巫術師ではない池田式部少輔の大姫に使役されることになったように。
(来い)
来い。
歪にした祭壇。供物である食物。目印の立葵と錨草。見立物の犬葡萄。そして、生贄となる珠姫。
これら御贄を捧げて神迎えとする。
来い。来い。来い。
「来い。――私は、ここにいる!」
どん、と地が揺れた。
そう錯覚するほどの圧倒的な力と存在感に、珠姫は犬葡萄を投げ捨てて後方へ跳んだ。
目の前の祭壇が押し潰されて砕ける。破片とともに供物がばらばらに飛び散り、砂や小さな石がぴしぴしと顔を庇った珠姫の袖を打った。
「――――」
招かれたものは、黒い闇をまとっていた。
見上げるほど巨大な動物らしきもの、それが言葉通り墨を撒いたように塗り潰されて見えるのだ。神聖な光が眩しいように、不浄の魔は深い闇となって人の目には映らなくなるという。それがいま、珠姫の目の前にいた。
(これが、凶つ神)
じゃく、じゃくっ。破砕音に不快な水音が混じって響く。まもなく巨大な闇の上方から食べこぼされた供物の鶏の鮮血と骨片が、ひしゃげた立葵に降り注ぐ。腐臭とむせ返るほどの血臭が辺りに立ち込め、珠姫はわずかに眉をひそめる。
しかし、多くのものを喰らった魔性がその程度で満たされるわけがない。
次に狙うのは本当の獲物――暗く光る目で珠姫を捉えた闇は、にたり、と野卑で陰湿な歓喜の笑みを浮かべた。
「[此の天願に仰ぎ奉る]!」
怖気を振り払う珠姫の宣詞が凶つ神討伐の嚆矢となった。
「[掛けまくも畏き 四竜を拝み奉りて 恐み恐みも白さく]!」
二重三重の結界が立葵の咲く外周を取り囲む。
時同じくして、隠形を解いて飛び込んできた墨衣の巫術師たちが一斉に凶つ神を拘束する巫術を編み上げた。
『――――!』
遠吠えと悲鳴が入り混じる不快な咆哮が、巫術を一瞬にして無効化する。
精鋭五人の巫術を容易く破る力は凶つ神と呼ばれるに足るものだ。
「効かんか!」
「まずは守りを崩さねば」
珠姫はその言葉を受けて「参ります!」と印を結んだ。
「[これを聞こし召してば 神問わしに問わし給え]」
宣詞を聞いた巫術師たちが援護に回る、それとほぼ同時に凶つ神の攻撃が来た。
足元から生じた旋風に結界を張ろうと構えた二人が吹き飛ばされる。そこへ凶つ神本体が跳躍してきたが、残った者たちが防護壁を築きつがえた矢を放ったため、黒い爪も牙も珠姫に届くことなく打ち返される。
「構わず続けて!」
「っ、[正しき姿、顕れ出よ]」
倒れた二人を気にかけている暇はない。自らを叱咤して珠姫は凶つ神を睨み据えた。
「[討つべき凶つ神。その姿は獣。名は、狗神]――!」
名と姿を暴く宣詞が、闇を見顕す。
墨が流れるように仮面が塵と化すように、黒いものが音もなく落ちて消えていく。
そして――この世ならざる妖獣が顕現した。
血を浴びたような赤い獣だった。毛は長く、特に首や肩は豊かな巻き毛に覆われている。二本の尾は太く、先に向かうほどに揺らめく炎のような鮮やかな色になる。その巨躯は、小屋や帆船といった物体に匹敵する。人を丸呑みできるだろう顎。一振りで家屋を破壊できるだろう太い脚。そして己と眷属以外のものを供物としか見ていない三つ目。
凶つ神と呼ばれる狗神、その真の姿だった。
「――[祓え給え、清め給え、守り給え]!」
異形の凝視に囚われる前に、珠姫は浄祓の巫術を放った。
それは先んじて投射されていた他の巫術師たちの巫術とともに次々に狗神を打ち叩く。
「[禊ぎ祓え給え]」
「[疾く祓え給え]っ」
「[砕し祓え給え]!」
水が矢に、風が刃となって飛ぶ。石礫が雨のように降り注ぎ、それらを燃やす清めの炎が狗神を包んだ。
しかしそれで止まるなら凶つ神などと呼ばれはしない。
「来るぞ!」
気配を察知した巫術師が警告する。
その直後、巫術など物ともしない素早さで突進と爪が繰り出された。ばらばらに避けたものの、続けて襲ってきた二本の尾に一人が薙ぎ払われてしまう。
『この程度か、巫術師』




