誇り高く、勇ましく、晴れやかに 3
「詫びの言葉よりも励ましが欲しいな」
「……はい?」
いきなりなんの話だ。
月光が、玄夜の顔を照らしている。
戸惑う珠姫だったが、その顔がいつもより青白く見えることに気が付いた。よくよく見れば目元が乾いていて、寝不足の影が現れている。こんな時間に報告を待って起きているのだから疲れているのは明らかだった。
当主ならば当然の働き、御上の勅命を受けた者の責務だと人々は言うのだろう。立派だ、よくやっているという声掛けや励ましは立場を持つ者には縁遠い。それは玄夜も例外ではないのだ、とこんなときに理解した。
どんなに身を削り、努力を重ねても、褒めてもらえない。それは、とても――。
(悲しくて、寂しい)
だから珠姫は、再び身を寄せるようにして伸ばした手で、玄夜の頭をそうっと撫で下ろした。
言葉ではなく、宥めるように触れたのは、玄夜がこおりを撫でる手を止めずにいたことが頭の隅にあったせいかもしれない。
(え)
途端に、玄夜は巫術で縛めたようにびしりと固まってしまった。
予想外の反応に珠姫も動けなくなる。
(しまった、つい……!)
距離感を誤った。不用意に近付くなんて警戒心がないにも程がある。我ながらいったいどうしてしまったというのか。
激しく狼狽して行き場を見失いつつあった珠姫の手に玄夜が擦り寄ってきたのはそのときだった。
(なっ!? え、えぇええ……?)
驚きと衝撃と戸惑いで呆然とする珠姫を、玄夜が上目遣いに見上げてくる。珠姫の手の位置に不満があるらしい。顔のいい男のそれは非常にあざとく、いっそ倒錯的だった。一方で『撫でろ』と要求するこおりの顔にも重なってますます混乱してしまう。
どうすればいいかわからず、しかしひとまず要望通りに手を動かすと、玄夜は目を閉じて、ふー……、と深く長く息を吐いた。
(…………気持ちよさそう……)
心地よさそうだからこうしているのは間違いではないのだろう。しかしいつもどことなく冷たく張り詰めている玄夜の和やかな様子を見ていると、珠姫の心の内からなんとも言えない気持ちが湧き上がってくる。
もし、こおりにするように撫でてみたら。
触れて、寄り添い、抱きしめたら、この人はいま以上に幸せそうな顔をするのだろうか――?
「っ、も、もも、もうおしまい! です!」
想像しかけたものにいきなり耐えきれなくなって、軽く押し返すようにして離れた。
玄夜が体勢を崩すと、その膝の上で微睡んでいたこおりが「みゃっ」と文句を言う。意図せぬ被害が出たと気付いて「ごめん!」と謝るが、こおりはこちらを見もせずに黒い尾でびたんと床を叩いてくる。すっかり機嫌を損ねてしまったらしい。
「こおり、ごめんね。本当にごめん」
すると玄夜が「ははっ」と声を上げて笑い出した。
「蘇芳の次席にも白鷺の第三席にも一歩も退かなかった君が、うちの猫にはそんな顔をするとは!」
夜陰に控えめながら響く、恐らく世にも珍しい墨月一族当主の笑い声。
「…………笑えるほど面白いなら、何よりです」
そんなに笑わなくてもいいだろうに、と恨みがましくじっとり言えば、「いいや」となおも玄夜は明るく笑った。
「可愛いよ。とても」
他愛のない、きっと彼にとってはどうということのない言葉。
それは、思いがけず、珠姫が心の奥底に沈めていた感情という名の小箱の封印を解き放った。
「――……いまのやり取りのどこに涙を誘うところがあったんだ?」
ふ、と微苦笑を零した玄夜の手が珠姫の頬を拭う。
そうされて、初めて、泣いていることに気が付いた。自覚した途端に堰を切ったように涙が溢れて、みるみる彼の指を汚していく。異変を感じたらしいこおりが首を伸ばして鼻をひくつかせながら、にぃ、と小さく鳴いた。
「……っ、ごめ、……な、さ……」
「いや。……不快だったなら、すまない」
不用意な発言だった後悔しているらしい玄夜に珠姫は首を振った。激しく何度も頭を振るせいでぽろぽろと雫が散らばり落ちた。
珠姫は『可愛げがない』『憎たらしい』と繰り返し言われてきた子どもだった。
この世でおおよそ愛らしいとされるのは餌を啄む小雀、稚く鳴く子猫や転がるように駆ける子犬、這いずっては機嫌よく笑う赤子、ありふれたものを不思議そうに眺める幼児のように小さく幼げなものたちだ。恐らく大半の人間が幼少期に『可愛い』と言われるものだろう。
しかし珠姫に与えられたのは罵倒と暴力だった。情を注いでくれる母を失い、強さを求めて巫術師となり、性別を隠して世を渡ってきた珠姫に、小さく幼げなものを慈しむように『可愛い』と言う者は誰もいなかった。いつしかそれでよかったのだと思うようになった。強くなればいいだけだ。強いと讃えられて恐れられるものになれば、きっと何も失わずに済むのだから。
(あなたはそんな私を『可愛い』と思える人なのね)
――それを、真の『優しさ』あるいは『強さ』というのだ。
「珠姫」
嗚咽を堪えて泣く珠姫の頬に玄夜が手を添え、顔を上げさせる。
涙に濡れて歪んだ視界でも、その瞳に力強い光が宿っていることがわかった。
「君は聡明で、芯が強く、力に恵まれながらも努力を怠らず、弱きを助け、痛みや苦しみを恐れず、諦めず、覚悟を持って戦っている。――私は、そんな君を強く美しい人だと思う」
忘れるな、と玄夜は言った。
「不幸になるな。決して心を折られるな。君に傷付いてほしい者たちの思い通りになってはならない。誇り高く、勇ましく、晴れやかに笑え。誰がなんと言おうと君は強く美しい。数々の苦難や悲しみがいまの君を形作っているからだ」
旭の顔、蘇芳一族と使用人たちの傲慢な振る舞いと悪い夢のようだった日々を思った。
そして、あの日の朝日を思い出した。
いま月光に照らされる珠姫の瞳は涙に濡れ、目元は赤く腫れて顔は濡れて汚れている。
それをぐいと拭って、頷いた。
「――はい」
罪は消えない。失われたものは戻らない。命果てるそのときまで贖いは続く。
そのすべてを持って、行こう。
――もう誰にも、私自身にも、奪わせない。
きっと上手く笑えていたのだろう。玄夜はそれでこそとでも言うように楽しげな笑みを浮かべていた。




