誇り高く、勇ましく、晴れやかに 1
巫術師として生きていくと決めたとき、珠姫は誓いを立てた。
――名前や顔、性別を隠し、不必要に明かさないこと。
――蘇芳一族の血を引いていると知られないこと。
――他の巫術師となるべく関わらないこと。
それは己の身を守るためであり、珠姫の事情に他者を巻き込むことを避けるためのものでもあった。旭の敵討ちも、贖いも、誰にも明かすつもりはなかった。あたかも宝物のように大事に大事に胸に抱いていた。
これからもずっとそうしていくのだと思っていたけれど――。
「…………」
初夏の夜は、月の冴えた光で青白く染められていた。
寝床の中でかすかな虫の声と風の音を聞きながら、何をするでもなくぼうっと瞬きをしていると、すぐ近くに気配を感じた。寝返りを打つと、陽だまりの匂いのする黒い生き物がちょこんと両脚を揃えて珠姫を見下ろしている。
「こおり」
笑み混じりに囁いて手を伸ばすと、黒猫はぐるぐると喉を鳴らして頭を擦り付けるようにしてきた。起き上がると膝に乗ってきて頭突きをしてくる。「痛いよ」と抗議したが笑ってしまった。
(最近みんな忙しくて構ってあげられていないからね)
凶つ神討伐の勅命を受けた玄夜は、冬路や椋人、寒翁、さらに先代当主など一族の中でも立場や力を持つ信頼できる巫術師たちに事情を説明して協力を仰ぎ、そのときのために着々と準備を整えている。しかし公務や一族の内外の仕事を怠ることはなく、いまは北祭の支度で忙しなくしていて、とても彼らが密命を帯びて暗躍しているとは思えないほどだ。
何事もなかったかのようにしているのは他の者たちも同じだった。
同様に勅命を受けただろう白鷺一族は以前と変わらず関わりがない。
そして蘇芳一族は、凶つ神との関係を匂わせることもなく、手紙を置いて失踪した丹久郎のことを公にせず、沈黙を保っていた。この手紙は偽装で、捕縛された丹久郎は現在協力者となり、いまは安全な場所で保護されている。宍雄は他の巫術師たちと監視任務につき、凶つ神や眷属、蘇芳一族の警戒に当たっていた。
(まるで嵐が来る前のようだ)
珠姫も、引き続き墨染邸で働きながら、玄夜に付いて宮中へ勤めに出ている。
変わったのは、彼らの要請で事件当時の状況や蘇芳一族について情報提供を行なっていること、そして礼儀作法と巫術の指導を受けるようになったことだ。有事に備えた鍛錬に奮い立つ珠姫を、玄夜を指導したこともあるという老齢の巫術師は「教えがいがある」と熱心に鍛えてくれている。また突然玄夜が「気晴らしがしたい」とやってきて仕事の合間に稽古をつけてくれることもあった。
(それにしても……ちゃんと寝ているんだろうか、あの人)
行き帰りの馬車では書簡を読んでいるか書き物をしているか目を閉じて一休みしているか。
巫術寮では姿が見えず忙しくしていると思ったら、気付いたらすぐそこで報告を受けたり指示を出したりして、会議だ呼び出しだと出ていく。その中には凶つ神や蘇芳一族の件も含まれているだろう。
帰宅すれば自宅や使用人たちについて報告と相談を受け、優先順位をつけられた書簡や書類を読み、必要なら返事をしたためて人を遣わせている。
だから、助けを請うたあの日のことは何も話せていない。話してどうなるものでもないなどと思いながら落ち着かない気持ちを仕事の忙しさで紛らわせている。
「お礼くらいは言うべきだよね……」
こおりの顎下や眉間をくすぐり、両手を使って撫で回していると、そのうち飽きたのか麺か餅のような柔らかさでぬるりと抜け出されてしまった。「もういいの?」と声をかけたが振り向きもせずに出て行った。
もう一度眠るにはだいぶ目が冴えてしまったな、と思い、着物を羽織って珠姫も部屋を出た。
(月が明るい)
澄んだ空気に、闇が青く見える。
こんなときでも美しいと感じることに幾許かの後ろめたさを覚えながら、人目につかないよう周囲に気を配りつつ、明るい方へと歩いていく。
そうして南庭の弘庇まで来たとき、床に伸びている影に気付いて足を止めた。
草木の眠る時刻だ。確かめるまでもなくそれが誰なのかわかった。
(……どうしよう……)
退いた足を留めさせたのは「にあー」という甘えた鳴き声だった。
「ん? こおり、どうした?」
膝の上の愛猫を撫でていた玄夜が、視線を辿るように振り返る。その目は、廊下の陰に立ち尽くす珠姫を見留めると猫目のように丸くなった。何故かよく似ている人と猫の二対の瞳で見つめられて珠姫は思わずたじろいだ。
何も言えず、戻ることもできず、ゆらゆらと揺れる黒い尾の動きを目で追っていると、玄夜がくすりと笑みを零した。
「眠れない? それとも出掛けるところかい?」
普段はこのくらいの時間に邸を抜け出し、辻術師に変装して街を巡っている。
しかしここしばらくは時間的にも精神的にも余裕がなく、以前のように市中を見回ることもできていなかった。
たった半年あまりで、信じられないほど多くのことが変わった。
「ふと目が覚めてしまっただけです」
微笑んだことで悪い夢を見てうなされたわけでもないと伝わったのか、玄夜は「そうか」と安心したように目を細めた。そして珠姫をひらひらと手招いた。
少し迷ったけれど、思い切って隣に腰を下ろした。途端に玄夜の膝にいたこおりが「なー」と鳴いて上目遣いに珠姫を窺ってくる。玄夜に構ってもらいながら珠姫にも遊んでもらおうという魂胆だろうか。
知らず知らずに笑みを浮かべていたが、ふと気配を感じて顔を上げると、こちらを見つめる玄夜の視線とぶつかった。図らずも一瞬見つめあってしまったことに驚き、咄嗟に庭の方へ目を逃す。
「あ、あの……まだ、お休みにならないんですか?」
「報告を待っている。それを受け取ったら休むよ」
眠った後で起こされたくないということらしい。ろくに休めない状況に責任を感じて珠姫が「すみません」と呟くと、玄夜は声もなく笑った。
「君にもいままで以上に仕事だ鍛錬だと忙しなくさせているんだから、お互い様だ」
近頃の珠姫は仕事をしつつ、合間に巫術の課題をこなし、休息日は実践を交えた鍛錬を行っている。休む時間は減ったが、むしろ感謝していた。
「私は、ありがたく思っています。戦力に数えていただけて光栄です」
雑務であっても誰かがやらなければならないことを任されるのは能力を認められているから。
そして新たに課せられた巫術の鍛錬は、言葉通り、凶つ神と戦う巫術師の一人と見做されてのことだ。
巫術師として堂々と旭の仇が討てる。それがどれほどありがたいことか。




