生きる意味 3
「……え」
まさか、と立ち上がりかけた珠姫の前にすっと顔を覗かせたのは、漆黒と月の名を負う彼。
「本当に面白い人だな、君は。この状況で白鷺一族の第三席に媚びるどころか喧嘩を売るとは」
「玄夜様!」
驚きで体勢を崩しかけながら走り寄る珠姫を、「おっと」などと戯けながら玄夜が受け止める。
たちの悪い言いがかりをつけられたが、いまは瑣末なことだ。珠姫は素早く玄夜の顔や全身に目を走らせたが特に怪我などはないようだった。なんらかの呪いをかけられた気配もないが、安心はできない。
「お咎めは」
墨月一族に、協力者に、誰よりも玄夜に罰が下されたのかどうか。
面白がるようににやついていた玄夜は、ふっと息を零して微笑んだ。
「罰は免れたよ」
罰は、とは。それ以外の何かを受けたというのか。
不安が顔に出ていたのか、玄夜は「後で話す」と珠姫の肩をぽんぽんと気安く叩いた。
「そんな顔をしなくても悪いことにはなっていない。大丈夫だ」
「…………」
信じられない、けれど頷くことしかできない。珠姫の歯がゆい心情を察したらしい玄夜は困ったような苦笑を浮かべていた。そして無意識に握りしめていた珠姫の手を取った。
「話は聞こえていた。――私や一族のために抗おうとしてくれて、ありがとう」
「ありがとう、って……」
珠姫は首を振って、与えられた感謝の言葉を振り払った。受けるべきは非難であって、決して感謝ではないことは自分自身がよくわかっている。
「勇気と無業はまったくの別物ですが、思いがけず報われてよかったですね」
白鷺一族の第三席が、剥がれ落ちていた笑顔を元通りに貼り付けている。
そこに込められた無言の圧を甘んじて受け止めた珠姫は、潔く頭を下げた。
「無礼な態度を取ってしまい、申し訳ありませんでした」
「謝罪は不要です。私も謝るつもりはありません」
素直に引き下がった相手にも第三席の舌鋒は鈍らない。
「なんの力も持たないあなたにできることなど限られている。身を捨てるくらいなら何もしない方がましです。無駄死にはこの世で最も愚かで無価値な行為であり、決して美談にはなり得ません」
白鷺一族の第三席だというこの若い巫術師は、穏やかで柔らかい貴公子然とした見た目や印象とは裏腹に、冷たく乾いた心の持ち主らしかった。玄夜とは異なる種類のその冷淡さでもって、珠姫の振る舞いを愚かだと断じる。それができるだけの生まれを、力を、立場を持っているということだ。
そんな彼は「ですが」と続けた。
「ですが、あなたの抱く信念は巫術師として正しく高潔なものです。白鷺一族、今上陛下にお仕えし護国に奉仕する宮廷巫術師の一人として、あなたのそれが歪むことなく四竜に届くことを祈っています」
不肖の身を恥じていた珠姫は、数秒置いて「え?」と顔を上げた。
しかし彼は珠姫には構わず、「それでは」と玄夜に一礼してさっさと立ち去ってしまった。
「相変わらずの捻くれ者だな。素直に『見惚れてしまった』と言えばいいものを」
呆然としていると、くつくつと笑った玄夜がそんなことを言う。
(これは……言葉通りに受け取らない方がいいやつだな……)
褒められたようで、捉え方を変えれば『理想だけは立派だ』と揶揄されたとも言える。恐らく大半が皮肉だろう。身の程を自覚しろ、今回は何事も済んだだけ、驕るな、と珠姫に釘を刺したのだ。
「さて、ひとまず巫術寮へ行こうか。一族の者たちにも話さなければならないことがある」
そうして珠姫の顔に目を走らせて「手当も必要だな」と眉をひそめる。
「名家白鷺の巫術師が、まさか治癒の巫術も使えないのか」
玄夜を取り巻く空気が冷えて鋭くなっていくのを感じて、珠姫は慌てて否定した。
「私が構わないでいいと断ったんです。気遣いを無下にしたのは私の方で、白鷺一族の方々に非はありません」
「だが、顔だ」
それがどうした。たかが顔だ。生きているんだから傷くらいできるだろう。
だというのに玄夜は殴打の痕の残る珠姫の頬にそっと手を伸ばし、触れるか触れないかの距離で撫でるようにした。
「他ならない君の顔なんだ。大事にしたいのは当然だろう」
大きく見開いた瞳に映ったのは、寒明けの微笑。
触れられたわけではないのに頬がかっと熱を帯びて、珠姫はとっさに顔に手の甲を押し当てて身を引いた。
「い、いきなり、何を……」
「本心だよ」と込められたものを感じ取って息を飲む。
「君を、君自身よりも大切にしたいと思っている」
そのとき胸に灯ったものの名を、珠姫は知らない。
小さく儚く眩しいもの。優しく、柔らかく、苦しいほどに美しくて澄んだもの。光を明るく、風を芳しく、四季を色鮮やかに見せる――そうして心に浮かんだのは、夏の夜の森の光景だった。天に浮かぶ星々が、足元を濡らす露が、舞い踊る蛍火が光り輝いて見えた。
いつか珠姫を守り、救い、しかし失ったもの。
それがいま、ここにある。
「――――」
「珠?」
この人が与えてくれたから。
珠姫は思いの溢れ出す胸を握りしめ、崩れ落ちるように膝をついた。
「――冬司る黒竜の巫覡、墨月一族当主、墨月玄夜様」
はっと息を呑む音を聞きながら、珠姫はさらに深く叩頭した。
「ご当主ならびに一族の皆様、臣僕の方々へのこれまでの無礼の数々を、心よりお詫び申し上げます。私は……」
怖い。
込み上げる涙で視界が歪む。自分が何者なのかを明かすのがこんなに恐ろしいなんて思いもしなかった。
「私は」
一族を名乗ることを許されなかった庶子。
未来の当主を死に追いやった罪人。
かけがえのない友のために贖いの生を選んだ巫術師。
そして、真の仇を討たんと願う復讐者。
「私は、夏司る赤竜の巫覡、蘇芳一族分家本流の妾出の子。名を、珠姫と申します」
身体の奥から溢れ出す恐怖に耐えながら一息に告げる。
「墨月様に身勝手を承知でお願いがございます」
何様のつもりだ。
どの立場からものを言っている。身の程をわきまえろ。
わかっている。誰に言われずとも、図々しく烏滸がましいことは珠姫自身がよく知っている。
それでも、叫んだ。
「我が友、蘇芳旭の仇、凶つ神を討ち取るために、どうかお力をお貸しください――!!」
凶つ神を倒せば、今度こそ珠姫の復讐は終わる。
そのためならばすべてをなげうとう。何一つとして惜しくはない。身も心も、この命でさえも。
なのに、思った。思ってしまった。
(この人なら、私を、助けてくれるかもしれない――)
怯える幼子のように珠姫はきつく目を閉じて小さく身を縮めた。
「――助けて」
愚かしい望みだ。都合のいいことを考えている。自らの弱さに甘えて助けを求めるなんて。それが本当に叶えられたことなど一度もないというのに。とっくの昔に思い知ったくせに。
「承知した」
ついにこぼれ落ちた言葉は、次の瞬間、跪いた玄夜によって珠姫の両手もろとも掬い上げられた。
涙で潤む目を見開きながらゆるゆると顔を上げた珠姫に、墨月一族の長は言った。
「墨月一族当主の名にかけて、凶つ神を討ち果たす君を支え、助け、ともに戦うと誓う」
そして、小さなため息に似た笑みを零した。
「――ようやく君を助けられる」
「…………っ……」
助けてくれる。助けてくれようとする人がここにいる。
唇を震えわななかせて俯いた珠姫を、玄夜が抱き寄せた。
漆黒の衣は、ごくごくわずかに雪の下の花を思わせる水と甘い緑の香りがする。
不甲斐なさを恥じながら、言い表しようのない感情に心を打ち震わせて珠姫は泣いた。これまで飲み込んできた涙をすべて流し切るように、声を押し殺して、耐えきれずむせび、泣きじゃくった。罵倒も暴力もやってこなかった。いたわるように肩を撫でさすられ、抱き留められ、見守られながらただ泣くことを許される。五つの、十二の、十七の珠姫がどんなに望んでも手に入れられなかったものを、玄夜が与えてくれたのだった。
――天願の地に凶つ神出現せり。護国の徒はこれを迅速に征伐せんことを。
天願国皇王の勅命は、墨月一族をはじめとしたごく一部の者にのみ、内々に下された。
これを受けて墨月一族は当主玄夜の名のもと、時機を見極め、しかるべき準備を整えて事に当たることとなった。またこのとき珠姫の存在が一族の中心的な巫術師たちにのみ伝えられた。珠姫は素性を隠し性別を偽って墨染邸や巫術寮に出入りしていたことを平身低頭で詫び、正式に協力者として受け入れられた。
世は、北祭の日が迫る初夏の盛りを迎える頃だった。




