泥濘の徒花 2
久しぶりに目にした広間の祭壇はきちんと清められた上で、米と水と酒の神饌が差し上げられていた。
閉じていた家を開けてまず何を置いても四竜を祀る祭壇を清めるところはいかにも巫術師らしい。その祭壇の前で重大な打ち明け話をしようと考えることもまた、巫術師特有の感覚と言えるのだろう。
意地のように朝餉の麦粥を胃の腑に押し込んだ珠姫は、広間で待っていた宍雄にまず深々と頭を下げた。
「昨日は見苦しい振る舞いをして、誠に申し訳ありませんでした」
「仕方がない。お前は昔から旭のことになると我を忘れる」
珠姫の執着を知る宍雄はため息を落とすように呟いた。
――蘇芳一族を追放された、あの日。
珠姫は巫術師として力をつけるべく、旭の最初の師匠を訪ねようと考えた。だが旭から伝え聞いていたのは、名前と人となりと、当時の蘇芳一族では強い力を持った巫術師で、血族との関係を絶ってどこかで辻術師をしているらしいという話だけだった。恐らく旭も居所までは知らなかったのだろう。
ならば人に尋ねるしかあるまいとまずは人里を目指した。森の恵みで腹を満たし、夜露で渇きを癒して、巫術を使いながら森を彷徨った。まるで妖でいう餓鬼だったと、後に宍雄は語った。
放浪する珠姫はまもなく壮年の男に遭遇した。
口減らしがまかり通る世の中なので捨て子だと思われたのだろう。男は珠姫に水や食料を与え、何をするにもまずは森を出る必要がある、身の振り方を決められるように人里に連れて行ってやろうと言った。
けれどそうやって最初は優しくして、最後は人買いに売り飛ばす輩もいる。無力であることをすでにさんざん思い知らされていた珠姫は、とりあえず、自分には便宜を計ってくれる大人がいる、親切にすれば見返りがある可能性をちらつかせて様子を見ようと考えた。
『巫術師の宍雄殿を訪ねようと思っています』
それに対して『お前は誰だ』と言ったその男こそ、訃報を知って楓屋敷の様子を窺おうとしていた旭の最初の師匠、後に珠姫の師にもなる宍雄だった。
旭を殺した妖をこの手で倒す――自らを痛めつけるように身体を鍛え、精神を強くする修練に打ち込む珠姫を見ていた頃のように、目の前に座る宍雄は渋い顔をしていた。止めるべきだが止められないとわかっている、苦悩する師の姿に、珠姫も久しぶりに申し訳なさを覚える。
「言うべきではなかった、と思っておいでですか?」
「――いいや」
宍雄は迷いを振り切るように首を振った。
「お前はいつか知るだろうと思っていた。俺が話さなくてもいずれこの疑惑にたどり着いただろう」
口振りに陰を感じて、珠姫は眉を寄せた。
「師匠は、いつから……」
「お前が生き残ったと聞いたときに」
そんなに前から、と愕然とした。
(どうして)
どうして話してくれなかったのか、なんて愚問だ。復讐の炎を燃やした珠姫が憎しみに駆り立てられることがわかりきっていたからだ。仇討ちを果たしたときのこと、疑念を滲ませもしなかった師の様子を思い返し、珠姫は表情を歪めて握りしめた手に力を込めた。
「俺が蘇芳にいた頃から一族はすでに衰えていた。先代や丹造たちが力を取り戻す儀式だ秘薬だと奔走して、胡散臭い古文書を集めていたことはよく覚えている。奴らが職務を放棄している間、俺のような分家筋の連中が宮廷巫術師の仕事をこなしていたからな」
立場の弱い者に雑事を押し付け、規模の大きな儀式のような華々しい場にだけ現れて大きな顔をする。今年の上巳の祓でも他家の役割を奪おうとしていたらしい蘇芳一族にはあり得る話だった。
「だから、旭が生まれて、しかも巫術の才があるとわかったときは大変な騒ぎだった。本家筋の者たちは涙を流しながら狂喜乱舞したそうだ」
(……本家筋の者たち『は』?)
宍雄は心が擦り切れてしまったかのような無感情な口調で告げる。
「分家筋の、特に遠縁の者は、次々に身近な者を亡くして喜ぶどころではなかった」
ぞっ、と全身が総毛立った。
生まれる命があれば死に行くものがある。それがこの世の理であり、喜びと悲しみは共存し得るというのに、語られる過去には禍々しい闇の気配があった。そう直感した。
「旭の誕生に前後して一族内で人死にが続いている――俺がそれを知ったのは知人の葬儀が終わった後のことだった。なんでも皆、行方不明になったか妖に襲われた際の傷で死んだという」
「本家は、知っていたんですか? 対応は」
「報告はされていたはずだ。だが旭が生まれたばかりだったこともあって、不吉な知らせを持ってくるなと言っていたらしい」
天災や流行病、格の高い妖の襲撃が原因で多数の死者が出ることは珍しくない。
だが全員が同じ死因、もしくは行方不明。それが立て続けに起こっていたのなら、違和感を覚えて当然だ。
しかし先代当主たちはそれを無視した。待望の跡継ぎばかりに目を向け、一族の者たちの訴えに耳を貸さなかった。
(むしろ、あえて捨て置いたのでは――)
いまの珠姫と同じ疑いを、当時の宍雄も抱いたのだ。
「そこで俺は一族を離れた。本家も分家もその取り巻きどもも信用ならない上に、とてもじゃないが当主を支えられるような器じゃない。才能のあった遠縁の巫術師や子どもたちが次々に不審死を遂げている状況では、次に狙われるのは自分かもしれないと思った。身を守るためには一族を出て、付かず離れずの距離でやつらを監視するのが精一杯だった」
そうして蘇芳一族の動向を窺っていたことで、宍雄は旭の訃報をいち早く知ることとなり、一族を追放された珠姫と遭遇したのだ。
「だったら、私が妖に襲われたのは」
野葡萄、立葵、錨草。あの日、珠姫がそれらを集めることになったのは丹造や緋左子に命じられたからだった。弟子入りの後に追放に至るまでの事情を聞いた宍雄も頷いた。
「そう、お前が分家本流の血を引く子どもだったからかもしれない」
それが意図したものならば、当主の丹造や継母など本家に近しい者たちは珠姫が妖に襲われるか行方不明になると知っていたことになる。
「ここ数年で不審な死に方をした蘇芳一族の者はいないようだが、実際はわからない。蘇芳を名乗っていない妾の子や孫が亡くなっていると考える方が自然だろう」
蘇芳一族は本家、直系、正統性にこだわる人間が多い。継母の緋左子が妾の娘である珠姫を下に置くことを徹底して蘇芳を名乗ることを許さなかったことを思えば、存在が明らかにされていない血族がいることもそれが亡くなっているとわからないことも十分にあり得た。
(蘇芳一族に、池田式部少輔の大姫のように妖を操ることができる巫術師がいる? ……いや、きっとあの人たちにそこまでの力はない。本当に妖を使役していたとしても、蘇芳一族の権威を振りかざすどころか、遠縁とはいえ一族の者を殺して蘇芳の巫術師を減らしているのは奇妙に思える)
何故そんなことをする必要があったのか。
一族の者を殺して得られるものとは。
「――旭が知ったのは、不審死にまつわること……?」
清く正しく、優しさを忘れず、幼い頃から次期当主の自覚のあった旭だ。彼が命を狙われるとすれば、それは罪を犯した者にとって都合が悪い存在だったからだと考える方が自然だった。
「知るべきでないことを知ってしまったか、知ったことで行動しようとして消されたか、それとも他に理由があるのか単なる不幸な事故だったのか、それはわからん。だが一族を救うとまで言われていた跡継ぎこそが脅威になると考えたやつらがいてもおかしくはない」
蘇芳だからな、と呟く師の心中は如何ばかりか。その言葉に納得できてしまう珠姫には察するに余りある。
(でも、あの人たちの悲しみは本物だった)
当主や継母たちは性根の悪さのせいか腹芸ができない、非常にわかりやすい人間だ。予期せぬ死を目の当たりにしなければあんな鬼気迫る顔つきで珠姫を責めることはできなかったはずだ。珠姫の追放も衝動的なものだっただろう。
ならば――蘇芳一族当主一派の中に叛意を抱く者が潜んでいるのか。
(旭の死を確認したのは、誰だ)
あのとき、珠姫と旭を楓屋敷に連れて帰ったのは?
旭の治療に当たったのは?
――もし旭が瀕死で、まだ息があったのだとしたら、その『誰か』がとどめを刺したのだ。
「蘇芳一族を調べます」
わからない。覚えていない。であれば、調べるほかあるまい。
険しい顔をした師と睨み合うようにしながら珠姫は言った。
「私には、旭の死の真相を知る権利がある。旭でなく私が死ぬはずだったなら、なおさら」
この思いは誰にも譲らない。
仇討ちのために力を求めた弟子を知る師は、深いため息を吐いた。
「だったら、俺が蘇芳を調べる」
「師匠」
「俺はお前に対して責任がある。お前も本懐を遂げる前に蘇芳の連中に捕まりたくはないだろう?」
危険なことも面倒ごとも丸ごと引き受けるという宍雄と睨み合い、しばらくして珠姫が折れた。
巫術師としても、技術も経験も、師には叶わないことは明らかだった。真実に辿り着く前に道を失うわけにいかないこともまた事実だった。
「くれぐれも、無茶はしないでください」
「わかっている。お前も、怒りや憎しみに駆られて馬鹿な真似はしないように」
今後の連絡手段、潜伏先の候補をいくつか、顔を合わせる際に落ち合う場所、万が一のときのことなどを取り決める。ほとんど聞くだけだった珠姫は、師がそうやって長い月日を情報収集に費やしてきたことを強く実感した。
「……それから」と少し間を置いて宍雄が言った。
「玄夜様にはこの件についてすでに話した」
ぎくりと全身が硬直する。
そうして思い出す、朝の光のような微笑み。
「お前のことは旭の友人とだけ説明して、後は本人から聞けと言ってある」
「……それは……玄夜様は、どう……」
「『承知しました』と答えた。後はあの通りだ」
どうして、と思った。
どんな気持ちで「おはよう」と言ったの?
何を思いながら朝食を作って振る舞ってくれたの?
子どものように土筆で遊んで笑っていたのは?
――秘密があるとわかっていて何も聞かないのは、どうして。
「…………」
胸が、苦しい。
いまにも叫び出したくなるような、それでいて泣きたくなるようなもどかしさに、珠姫は胸元を押さえるようにして俯いた。




