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四季巡る竜の国の巫術師  作者: 瀬川月菜
第5章 泥濘の徒花
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泥濘の徒花 3


「何かわかったら連絡する」


 朝のうちに廃社の家を後にする珠姫と玄夜に、宍雄が言った。

 珠姫の知らないところで彼らの間でもなんらかの取り決めがあったようだ。玄夜は墨月一族当主として蘇芳一族の動向を把握したい、宍雄は遠方の皇都の情報や玄夜の伝手や情報網を利用したい、といったところだろうか。何をするつもりなのか。何故ともに発つのか。尋ねれば教えてくれるのかもしれないが、秘密を抱えた珠姫には何一つ問いかける資格はないように思われた。


「…………」

「…………」


 春の名残の冷たい泥と、濃さを増す緑の匂いが満ちる森の気配が、二人の間の沈黙を埋めていく。


 あっという間に森を抜け、山を下り、水を張った田地や耕された農地が見え始めた頃、玄夜が口を開いた。


「すまなかった」

「……え?」

「知らなかったとはいえ、要らぬ期待を抱かせてしまった」


 息を呑んだ珠姫は唇を噛み締めて俯き、いえ、と小さく言った。吐く息が震える。


「お詫びするのは私の方です。何も言わずに役目を放り出した上に、お見苦しいところをお見せしました」

「確かに、あれほど取り乱した君を見たのは初めてだったな」


 かすかに笑う声が緑の匂いのする風に溶けて、目を上げられないでいる珠姫の耳元を撫でる。


「――それほどまでに思われる蘇芳旭が、少し羨ましい」


 零れ落ちた雫のような言葉は、まもなく珠姫の心に波紋を描いた。


(……羨ましい、って……どういう……)


 しかし玄夜がどんな顔をしているのかはわからなかった。気付けば彼はすでに歩き出している。


「近くの家に馬を預けてある。馬を駆れば明日には皇都に着けるだろう」


 早足で後を追った珠姫に素っ気ない口調でそう言った。先ほどの呟きどころかここ数日のことなどなかったかのようで、珠姫は激しく混乱した。


「わ、私と一緒に戻るつもりですか?」


 気が知れない、という思いが声に表れていたのか、振り返った玄夜は訝しげな顔をしていた。


「どういう意味だ?」

「私は役目も仕事も放棄して邸を逃げ出したんです。戻れるわけがありません」


 書き置きを残したところで無責任な振る舞いだったことに変わりはない。誰にも許してもらえないだろう。

 ああ、と玄夜は理解できたらしく頷いた。


「そのことなら、君は私の仕事に同道していることにしてある」

「……え?」

「書き置きを読んだのは私だけだ。沈んだ顔をしていたのが気になって様子を見に行ったら、案の定もぬけの殻だったので、急いで後を追った」


「それから椋人にしばらく家を空けると連絡した」とこともなげに言う。


「だから邸の者も巫術師たちも、君が私に付き添って留守にしていると思っている。誰一人として逃げ出したなどと思ってはいない」


 なんの話をしているのか。

 珠姫は呆然と立ち尽くした。揶揄われているわけではない。担がれてもいない。そうするべきだからそうしたのだという静けさが、青草に吹く風のように珠姫の強張った頬を撫でる。それは間違いなく優しさや思いやりと呼ばれるものだった。


「どうして」


 心に渦巻くあらゆる問いと疑いを込めた、けれど決してすべては伝わらないだろう『どうして』は、音にした途端に珠姫の呼吸を奪った。


「どうして……」




 ――何故、あなたは、こんな秘密だらけで不誠実な私に優しいの?




「……どうしてだと思う?」


 そう言った玄夜の顔に笑みはない。


 けれどその瞳の奥に、声の響きに、青い炎とよく似た激情があった。


 触れたら最後、全身が燃え立ってしまう――無意識にひりつく胸元を握りしめた珠姫が後退りすると、途端に玄夜は目つきを和らげた。唇の端に浮かぶ淡い微笑は、激しい感情を垣間見た後ではどことなく寂しげに見えた。


「君について、詳しく尋ねることはしない」


 かけられた言葉は、思いも寄らないものだった。


「話したいと思ったときに話してくれればいいし、聞いてくれというなら聞く、その必要がないならそれでいい……ただ、私が近くにいることを覚えていてほしい」


 降る雪のように静かに言葉を重ねて、玄夜は右手を差し出した。


「さあ、家に帰ろう」


 ――家。


 そんなものはないと硬く吐き捨てる声がする。


 けれど胸に浮かんだのは朧げな記憶の中の生家でも山深い楓屋敷でもなく、白雪と紅椿に彩られた冬の墨染邸だった。


 あのとき玄夜が切っていた椿の花は、話し合いが終わった後、改めて青竹の一輪挿しとともに珠姫に贈られた。季節が過ぎて枯れてしまった椿に代わって、いまは鮮やかな青紫の菖蒲の花を活けている。


(早く水を変えてやらないと)


 花が萎れる前に。

 すでに墨染邸に帰ることを考えていると気付いた珠姫は苦く笑い、諦めの気持ちとともに玄夜の手を取った。




 玄夜の馬を預かっていたのは、この辺りで五年ほど暮らしていた珠姫も知っている、気のいい中年の夫婦だった。農業に従事する里人の多くは牛馬を飼っているので、家は粗末でもしっかりした厩舎を備えており、食料や着物といった対価を払えば客人にするように丁重に世話をしてくれるのだ。


「ですから、困ります! それはお客人から預かった馬なんです!」


 しかしその家から騒ぐ声が聞こえてくる。


「だから、相応の対価を払うと言っているだろう」

(この声……)


 他者を鼻で笑うような声の調子と威丈高な物言いには、嫌というほど覚えがある。


「どうした?」


 できれば関わり合いになりたくないのだが、さて、どのように説明したものか。

 足を止めた珠姫とそれを訝しむ玄夜の耳に甲高い馬の嘶きが届いたのはそのときだった。

 馬の拒絶と怒りを聞き取った珠姫と玄夜が急いで敷地内の厩舎に駆けつけると、激しく抵抗する黒い立髪の美しい青駒と、狼藉を働かんと縄を手にした男、それを止めようとする家主が争っているところだった。


「私の馬に、何か?」


 玄夜がにこやかに、しかし冷え冷えとした声で問いかけた。

 家主は「お客人!」と呼んで額に汗を浮かべながらほっとした顔をしたが、もう一人は盗人猛々しく余所者の玄夜に「なんだ、お前は」と不躾な態度を取る。珠姫はそれらを玄夜の背に隠れるような位置で顔を背けながら見ていたが、何故か機微に疎い輩に限って無駄に目敏いのだ。


「……珠姫? お前、珠姫か?」


 馬泥棒、もとい、できることなら二度と顔を合わせたくはなかった傲慢な村長の息子が、珠姫を呼んだ。

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