泥濘の徒花 1
旭の巫術が好きだった。
綺麗な赤い光、火を灯すことも傷を癒すこともできる不思議な力――それは家族として迎え入れられず、下女として扱われ、なぶられ、使用人たちにも虐げられる珠姫にとって、暗く閉ざされた未来に浮かんだ眩しい心星のようだった。
(なのに、殺されたなんて――)
目覚めた珠姫は泣いていた。古い天井の染みが歪んで見える目を擦り、涙で濡れた眦を拭って、それでは足りず、両手で顔を覆って嗚咽を噛み殺した。
「………………」
ここは、かつて師と暮らした廃社の家。珠姫の私室として使っていた部屋だった。
とっくに夜は去ったらしい。宍雄の言葉に衝撃を受けたこと、ここまで無理に旅をしてきたこともあり、心身の限界を迎えて意識を失い、そのまま朝を迎えたようだった。寝具は傷んだ畳に布を敷いたもので、布団の代わりに狩衣をかけられている。珠姫を休ませるために久しく閉じていた家を開けて、最低限のしつらいを整えたというところか。
(……師匠に詳しい話を聞かなくちゃ)
間に合わせの布団の中で泣いていても何も変わらない。重い身体を引きずるようにして服装を整え、汚れた顔をぬぐい、髪をまとめる元結が見つからないので手櫛を通して、部屋を出た。
空気は埃っぽく、長く人が住んでいない家特有の臭気が微かに残っている。
宍雄がいるとすれば広間か私室か、庭辺りだろうかと思っていると、厨の方から物音がした。
滋味を感じるいい香りに気付くと同時に、空っぽの胃の腑が鈍く痛んで強い脱力感を覚える。生きるために食べ物を欲する浅ましさに少し泣きそうになりあがら、朝の光が差し込む厨に顔を出した。
竈の前に立っているのは、玄夜だった。
「――――」
襷掛けで袖を捲り上げた玄夜は、鍋の汁物をかき混ぜている。
(………………幻……?)
襷掛け? 炊事? 名だたる巫術師の名家、墨月一族のご当主様が?
まだ夢を見ているのだろうかと呆然としていると、気配に気付いた玄夜が振り向いた。
「ああ、おはよう」
「……おはよう、ございます…………あの、……それは、何を……」
「ん、鍋の中身かい? 麦粥だよ」
ごくごくありふれた朝の挨拶。至極まともな朝食。
ただ玄夜が炊事場に立って調理をしているという状況だけがおかしい。不可解な光景にたじろいでいると、ああ、と玄夜が何かに気付いたように頷いた。
「見習い時代に神饌を拵えていたから、厨仕事には慣れている」
(な、なるほど……?)
「ちなみに、妖祓いを想定した修行で、野営や野外での調理の経験もある」
やっぱり変な人だ、と軽い目眩を覚えた。貴族に相当する立場の宮廷巫術師が、使用人のように水仕事をしたり、野営に抵抗がなかったりなんてことは常識ではあり得ない。
(そうして習得した宿営能力でここまで私を追跡してきた、と)
珠姫はため息を飲み込んだ。色々と思うところはあるが、これが現実なのだから受け入れるほかない。
「師匠、いえ、宍雄殿は……」
「荷物を取りに行くと言って住居に戻られた。そろそろ帰ってくると思う」
珠姫は眉を上げた。警戒心の強い師、年若い弟子を不器用に案じてくれていたあの人が、この家に珠姫と玄夜を二人きりにしたというのか。
(信用に値する、ということ?)
ふと玄夜が何かを探す素振りを見せたので、珠姫は厨に下りて、洗い場に出してあった木の椀と匙を差し出した。
「ありがとう」
唇の端に笑みを浮かべた玄夜は椀に粥を注ぐと、珠姫に「頭を働かせるためにも少し食べなさい」という一言と、香ばしい湯気を立てる麦粥とたらの芽のおひたしの小鉢を渡してきた。厨仕事ができるというのは本当らしい。
(何をさせてもそつがない人だ)
墨月一族当主に朝食を振る舞われた女中は後にも先にも私だけだろうな、と思いながら、いつもしているように厨の隅に行き、上がり框に腰掛ける。食欲はなかったが、身体活動を維持するための補給だと考えることにした。
匙に少しだけ掬って口に運んだ粥は、よく煮込まれてとろけていた。麦らしい香りと甘さ、温かみが全身に染み渡って、ほっと息が零れる。自覚していた以上に身体は滋養を欲していたようだ。
「美味しい……」
思わず漏れた呟きを聞き取った玄夜が、ふふ、と笑う。
「口に合ったなら何よりだ」
それは、朝の光そのもののような柔らかく温かな笑みだった。
つかの間呆然としていた珠姫ははたと我に返り、椀にお年かけていた匙を握り直した。
(……そういう顔もできるんだ……)
ちらと横目で窺った玄夜はたらの芽以外にも採ってきたらしい山菜の下拵えをしている。包丁を扱う手つきは危なげなく、それどころか肩の力が抜けて、どこか楽しげに見えた。
「……玄夜様は召し上がったんですか?」
「うん? ああ、味見程度に軽くな」
それは食べたとは言わない。呆れた珠姫が作業を代わろうと傍らに椀を置いたときだった。
「どこを繋いだでしょう?」
そんな言葉とともに、にゅっ、と土筆を突きつけられて、面食らってしまった。
「は、はい?」
「土筆遊びだよ。知らないかい?」
ほら、と言いながら玄夜が持っていた土筆を引っ張った。
土筆は半ばほどの節で二つに分かれたが、元の位置に差し込むと、何事もなかったかのように一本に戻る。どうやらそうやって外れている節を当てる遊びらしい。
「ではもう一回。どこを繋いだでしょう?」
「え、えっ?」
笑顔で新しい土筆を差し出されて、珠姫は大いに戸惑った。こんな子どもみたいなこと、お互いにいい歳なのに、と思ったが、玄夜の楽しげな雰囲気に巻き込まれて、珠姫はおずおずと土筆の一つ目の節を指した。
「ええと……ここ、ですか?」
ふふ、と玄夜は意味ありげに笑った。
「あたり」
すぽんと音が聞こえそうな勢いで穂先が抜ける。
子どもっぽい遊びだと思うのに的中とするとやっぱり嬉しいもので、強張っていた顔に柔らかい熱が上る。あわせて、玄夜に勝ちたいという負けん気も湧き上がってきた。それが見て取れたのか、玄夜がくつくつと肩を揺らす。
「遊ぶのは朝食を食べ終わってからだ」
先に仕掛けてきたくせに軽くあしらわれてしまい、むっとするやら幼稚な振る舞いが恥ずかしいやらで、珠姫はぐぐっと押し黙った。急に襲い来る気恥ずかしさから逃げるようにして冷めてしまった粥をもそもそと口に運ぶ。
(何をやってるんだろう、私)
春の遊びや土筆のような草花に親しむのは初めてと言ってもよかった。亡母の記憶はとうに遠くなり、唯一の遊び相手だった旭に会えるのはいつも夏だったからだ。
笹舟流し、大葉子引き、草花編み。蛙や虫を取り、小さな実を捥いで二人で食べた。蛍の舞い飛ぶ森で、夜空の星を数え、巫術師になったつもりで読んだ。どこにでもいる童子のように。
――蘇芳旭は、決して誰かに殺されるような人ではなかった。
「おい、珠姫」
厳しく響く呼びかけが暗い感情に沈み込む珠姫を引き戻す。
「師匠……」
いつの間にか宍雄が厨の入り口に立っていた。師の前で如何に取り乱したか、勝手なことを言って、醜態を晒したのかを思い出して何も言えなくなる珠姫だったが、宍雄はそれを一瞥すると、何を言うこともなく、持っていた袋を玄夜へと突き出した。
「頼まれていた薬種だ」
「ありがとうございます。朝食ができていますが、召し上がりますか?」
宍雄は厨と鍋と玄夜をしげしげと眺めて、言った。
「……好きに使えとは言ったが、本当に炊事ができるとは思わなかった」
「一人で生きていける巫術師になれ、というのが私の師の信条でしたから」
涼やかに微笑する玄夜に、無骨な見た目に反して常識人の宍雄はどこか呆れた面持ちだった。そうして「飯は後でもらう」と告げると、そのまま家の中に戻るのではなく、珠姫のもとへ来て言った。
「食い終わったら広間に来い」
「……はい」
昨日の話の続きをするのだと否応なしに悟った後の粥は、もう味がしなかった。




