罪と夜明けの記憶 8
ぎゃああぎゃあああぎゃああああ! と絶叫が上がる。激痛を訴える叫びに頭を殴られたような痛みと耳鳴り、潰されかけていた身体が楽になる開放感、突如流れ込む息で咽せる苦しさがまとめて押し寄せて、珠姫の五感が混乱を来たす。
何がどうなった? 妖は? 私はいまどこにいるの?
「――珠姫!」
強く真っ直ぐな声は、小さく身を縮めていた珠姫を解き放つ。
涙に濡れた目をはっと見開く。歪んだ視界の向こう、闇の中から、巫術の光を纏った彼が駆けてくる。
「あ、ぁ、旭――!」
来てくれた。来てくれた。来てくれた。
這い出すようにして走り出す。転ぶ。四つ足で前へ進みながら身体を起こし、旭に向かって手を伸ばす。
強張った顔をしていた旭がふと笑みを零した。大怪我を負ったのではないか、間に合わなかったのかもしれないと焦っていたが、珠姫がなりふり構わず走ってくるので安心したのかもしれない。
涙と泥と色々なもので汚れた珠姫は旭の腕の中に飛び込んだ。
旭はそれをしっかと抱き止め、そして――勢いよく、突き飛ばした。
「――――」
どうして、と思う間もなかった。
投げ出された衝撃で一瞬意識を飛ばした珠姫だが、はっと我に返って身を起こした。
(旭!)
旭はもうこちらを見ていなかった。珠姫のことなど忘れたかのような恐ろしい顔で妖を見据え、手をかざす。たったそれだけで放たれた巫術は燃え盛る炎となって妖を焼いた。
(……旭?)
炎に照らされる旭は、真っ赤だった。
顔は真っ白なのに、胸元や袖がまだらな赤に染まっている。その色はまるで生き物のように動き、じわじわと広がっていて、まるで旭を飲み込もうとするかのようだ。
険しい旭の顔が一瞬苦痛に歪んだ、その瞬間、怒りと憎しみを叫んでいた妖の前脚が凄まじい勢いで彼を薙ぎ払った。
「旭ッ!」
旭の意識が逸れて巫術が途切れたその隙に、妖はまんまと闇の向こうへ逃げおおせた。
しかしそれに構っている暇はない。珠姫は急いで吹き飛ばされた旭を探した。
「旭ーっ! 旭ぃ!」
「…………珠……」
微かに呼ぶ声がした。弾かれたように声の方へ走り出すと、杉の木にもたれている旭の姿があった。
ほっとした珠姫は、しかしすぐに足を止めた。
ずるり、と後ろに下がった足が滑った。この辺りだけ地面がひどく濡れている。
「あ……」
頭が痛い。目眩がする。息ができない。
身体が震える。地面が揺れている。
「旭……?」
旭は、微笑んだ――鮮血に染まった顔で、いつものように。
切り裂かれた前身頃からどくどくと溢れ出す血が全身を赤く染め、地面をも濡らしていた。頭部の出血が目を潰しているが拭うことができないらしい。おかしな方向に曲がった足も折れてしまって動かせないようだった。
「……あ……あ、あ……」
迫り来る妖から、珠姫を守るために突き飛ばし、代わりに攻撃を受けた。
負傷したせいで、反撃を躱すことも受け身も取れなかった。
そう正しく認識できたのに、珠姫から迸ったのは、意味のない叫び声だった。
「あ、あああぁっ!!」
四つ這いで走り寄り、血塗れの旭を抱き上げようとして、それはいけないのではないかと思い直し、傷を押さえた方がいいのか他にすべきことがあるのか、どうすればいいのか何一つわからず「旭、旭」と繰り返す。
「……ごめん……珠姫…………」
「あ、あ、旭、どうして、どうしてこんな……巫術、癒しの巫術を!」
これほどの深傷を癒す巫術もその技量も、珠姫は持たない。
できるのは正しい方法で四竜に呼びかけて奇跡を請い願うことだけ。
(だったら……!)
それでも、と一縷の望みをかけて印を結ぼうとする珠姫の手を、旭が強く握った。
「だめだよ、珠姫」
「嫌、離して! このままじゃ」
「いいんだ」
そう告げる旭の澄んだ瞳には眩しいくらいの確信があった。
「いいんだよ。これは、罰、だから……」
旭はいつも正しい。無知な珠姫に知識と技術を与え、疑いや問いに真っ直ぐに答えて、輝く未来の在処を指し示してくれた。でもいまだけはそれを素直に受け止めることはできない。聞き入れられるわけがない。
「何がいいの!? わからない、旭が何を言ってるのか全然わかんない!」
駄々を捏ねたのに、旭は「そうだよねえ」と顔をくしゃくしゃにして笑った。
「僕にも、もう、わからないんだ……いつから、こんな……知っていたら僕は……」
遠くで、旭を呼ぶ声がする。
聞こえてくる声は一つや二つではない。楓屋敷の者が彼を探しているのだった。
ここまで来るのなら妖祓いができる巫術師のはず。癒しの巫術を使える者もいるだろう。傷付いた旭を助けることができる。
「珠姫」
少しずつ近付く声に答えようとする珠姫を、また旭が止めた。
「逃げて。いますぐ」
焦ったのか旭は身体を起こそうとして、激しく咳き込み、ごぼっと血を吐いて力なく倒れた。
「旭!」
「……蘇芳、は、もう…………せめ、て……君、だけ、は……」
「喋っちゃだめ!」
横たわらせた旭の身体は恐ろしく冷えていた。失血のせいで危険な状態なのだと医師でない珠姫にもわかった。
「……もっと……教えてあげ…………楽し……こと……一緒に……」
「喋らないでったら! 誰か、誰かあぁ! ここにいるの! 助けて! 助けてえっ!」
「……ただの、旭、と……珠姫で……いたか、……た……」
「黙って! 黙ってよ!」
言葉を紡ぐ度に命が零れ落ちる。そんな気がして、珠姫は激情を叩きつけて旭を黙らせようとした。
だというのに旭は、ふ、と笑みを零した。こんなときに何故だろう、まるでこの先の楽しみを思うようにどこか嬉しそうに見えた。
「……善い、巫術師に……なって…………ね……………………」
そのとき、支えていた身体がわずかに軽くなった。
「旭?」
旭は目を閉じていた。
肩を叩く。反応がないので傷に障らないように軽く揺さぶる。
けれど返事はない。それどころか傷の痛みに顔を歪めることもしない。
いまの旭にはあるべきものがなかった。目に見えない尊いものが失われていた。
「………………いや……」
嫌だ。嫌だ嫌だいやだ嫌だ。
じわ、と溢れる涙の熱さが痛い。あらゆるものを否定するように激しく首を振り、これが間違いないのだと証明するために、冷たい旭の身体を揺らす。
「……旭、起きて。目を開けて。お願いだから……」
認めない。認められるわけがない。こんなこと。
「嫌だ、嫌だ止めて、行かないで! 置いていかないで! 旭、ねえ旭!」
旭だけだった。
珠姫を助けてくれるのはたった一人、旭だけ。恩人で、友人で、巫術の師匠で、唯一無二の人――十二歳の珠姫のすべてだった。
「……目を開けてよ……旭……」
旭だけ、だったのに。




