【ツインピークスで】
空港には井上さんの姿はなかった。
井上さんから事前に出迎えができないことは伝えられていて、月曜日の8時にサンフランシスコ領事館に直接行くことになっていた。
「なんか出迎えがないのは少しつまらないね」と薫さんが言った。
でも薫さんも私も知っている。
なぜ井上さんが空港に来なかった理由を。
きっと彼は16時間という時差と飛行時間により、日本からの出発とアメリカへの到着がほぼ同時刻になることを考えて私たちに新婚旅行をわずかな間だけでも楽しませるために来なかったのだ。
自分が出迎えることによって、明日からの仕事の話もしなくてはならなくなり、そのぶん私たち二人だけの時間は減ってしまう。
今日は十分新婚気分を満喫し、明日からは気持ちを切り替えて仕事に励むようにということなのだ。
思いやりがあって、仕事には非常に厳しい。
井上成美という人は、そういう人。
私たちは空港からホテルに向かい、荷物を置いていったん着替えたあと、車を借りてゴールデンゲート・ブリッジを往復してフィッシャーマンズワーフでカニやエビを食べた。
日が暮れてからは車でツインピークスに登り、サンフランシスコの夜景を眺めた。
「わあ! きれい!」
360度、見渡す限り眼下に広がるサンフランシスコの夜景に薫さんが感嘆の声を上げた。
灯火管制も敷かれていないこの巨大都市の夜景は、まさに平和のシンボルだと思った。
「ほら、あそこにゴールデンゲート・ブリッジも見えるよ!」
彼女が指さす先にはライトアップされたゴールデンゲート・ブリッジも見えた。
薫さんの瞳はまるで子供のようにキラキラと輝いていて、まるで街の灯りだけでなく夜空の星々の光までも薫さんの澄んだ瞳という投影機からこの世界の天象儀に照らされたものなのではないかと思えるくらい神秘的な美しさを放っていた。
「どうしたの?」
じっと彼女を見つめている私に気付いた薫さんが私の傍にやってきて聞いた。
私はその瞳から目を離せないまま「美しい」と呟くと、彼女はここに来てよかったね。と他人事のように涼やかな目をして言い、私の胸に顔を埋めた。
私は両手でそっとその体を包み込む。
薫さんの香りとともにその温もりが伝わり、私の心を温かく包む。
これが一人ではない幸せの温度なのだろうと思った。
私はこの温もりを生涯手放したくないとあらためて思い、彼女の体をいつまでも抱いていた。
次の日、私たちはサンフランシスコ日本領事館に7時40分に赴いた。
領事館の係員に用件を伝えると、すぐに井上中将が参りますからと言われ小会議室へと案内された。
席に着いて鞄を開けノートを広げペンを用意する私に、薫さんはまだ早いのではないかと言ったので、海軍は何をするにしてもその時刻の5分前までには準備を済ませておくのが決まりだということを伝えると彼女は時計を見て慌てて筆記用具の準備を始めた。
そして8時5分前に井上さんが来たときには薫さんもすっかり準備が整っていて、軽く雑談をして8時丁度から話が始まった。
井上さんの話ではアメリカ陸海軍による地中海作戦が現在行き詰っているので視察を兼ねたアドバイザーとして現地に行ってほしいというものであった。
もちろんこの問題は、いくらPPSAという環太平洋安全保障協定が結ばれているとはいえ、国防上の機密事項もあることはアメリカ側としても十分承知しているうえであえて意見を聞きたいというもの。
私がそれなら渡辺局長か百武副局長を来させるべき案件だったのではないかと言うと、井上さんは渡辺も百武も優秀な人物ではあるが大本営を名乗るには未熟で、今は君が漕ぎ出した船に便乗したに過ぎないと言った。
私はいくら井上さんの発言だとしても、その言葉は二人に対して失礼であり大本営の部員の平和を思う気持ちは皆一緒だと訂正を求めると、井上さんは黙った。
私も組織は違うが中将に向かって少し言い過ぎたと思ったし、井上さんも頑固だからここで口論になってしまうのはまずい。
しかし何の落ち度もない人を、しかも自分が所属する組織の上司を未熟呼ばわりされて引き下がるわけにはいかない。
こういう時に機転の利く薫さんがいてくれて……。
と思い、横目で見ると、薫さんは私たちの話には我関せずといったふうに、一生懸命井上さんが持ってきた資料を読んでいるだけで助け舟を出してくれる素振りはなかった。




