【二つの世界②】
フーバー長官をホテルの玄関まで二人で見送ると、ホテルの人が駆けつけてきて電話が入っていると知らせてくれた。
受話器を取ると相手はハル長官で、明後日にワシントンDCに来てくれれば大統領といっしょに会ってくれることになった。
ルーズベルト大統領までいっしょとは少し気が引けた。
何しろこれからのことは、私の想像の域をでないことだから。
もちろん前史においても似たようなことは起きたが、そのほとんどは冷戦でアメリカとソビエトの緊張関係が極限まで高まった1950年以降のこと。
だが日ソ不可侵条約を日本が拒否した後のソビエトの動きや、アメリカの欧州戦争参戦が前史より早まったことによるソビエトへの利益配分の問題もあり、スターリンは速めに然るべき手を打ってくるはず。
考え事をしていて気がつくと、正面には薫さんの顔が真っすぐに私を捉えていて驚いた。
「もう、なに深刻な顔をしているの? これからプレゼン資料でも作成するつもりだったら手伝うけど……」
私は薫さんの言葉に、協力してくれるのはありがたいけれど、不確定要素が多すぎてまだ書面に起こせる確固たる証拠も提示できないからプレゼンの作成はできないと答えた。
私の答えを聞いた薫さんはニコッと、まるで花が咲いたように明るく笑い両手を広げて「じゃあ、思いっきり可愛がって!」と言って抱き着いてきた。
その子供のように可愛い仕草に私ものぼせてしまい、抱き着いてきた彼女を支えたままクルクルと回して遊ぶと、周囲からOH!というどよめきが起きた。
薫さんの大胆な行動に引き込まれて、つい忘れてしまったけれど、ここはホテルのロビーだった。
私たちはホテルの人に紹介してもらい、美味しいと評判のビーフステーキの店で夕食を取った。
行ったのは36丁目6番街にある1885創業のキーンズ ステーキ。
厚さ4センチほどもある骨付きステーキに舌鼓を打っているとき、50代くらいの紳士風の男性とその奥さんらしい人が近付いてきた。
“ソビエトのスパイ!? それとも暗殺者!?”
だとしたら彼らは小型の拳銃を持っているはず。
そして私たちは何も武器となるようなものは持ってはいない。
2人は薫さんのやや斜め後ろから、恐る恐る近付いてきていて、まるで様子を窺っているように見えた。
薫さんはロブスターの爪の中の身に奮闘していて、背後から忍び寄る2人には気付いていなかったので、テーブルの下から足を延ばしてチョンチョンと彼女の靴に当てて、ようやく気がついた薫さんに目で合図した。
薫さんが2人の方を振り向くと、あきらかに2人とも表情が変わり、意を決したように近付いてきた。
私が腰を上げるよりも早く、2人は薫さんに急接近してきて言った。
「Excuse me for asking, but are you Madame Butterfly?(失礼ながらお伺いしますが、あなたは蝶々夫人ですか?)」
誰かと勘違いしている。
もしくはわざと勘違いしているふりをして近付いてきた。
そう思った私とは違い、薫さんはなぜか親しみを込めた表情で、相手に言った。
「Did we meet at the lecture in San Francisco?(サンフランシスコでの講演でお会いしましたか)」
薫さんの言葉に夫人は感動して「Oh my goodness!(なんてことでしょう)」と言って薫さんの手を取り親しみの笑顔を見せた。
「You are the real Madame Butterfly!(あなたこそ、本物の蝶々夫人よ!)Thank you for peace」
婦人は感極まって、泣き出してしまい、薫さんは優しく夫人を慰めていた。
「おどろいたなあ、まさかサンフランシスコのオペラ会場に来ていた人がニューヨークにもいたなんて」
「あら、総一郎さんは、なにか物々しいような雰囲気に見えたのですが?」
「だって、知らない人が近付いてくるものだから、私はてっきりスパイだと思って……」
「まあ私を守ろうとしてくれたことには感謝します」
「ごめん」
「いいよ、その代わり今夜はいっぱい私を可愛がること」
「了解しました!蝶々夫人!」
私たちは、笑いながら意気揚々とホテルに帰った。




