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第9話 夢殿の消えた記録

 マナの修復室には、朝の光が斜めに差し込んでいた。


 窓の外では、ホウジュ区が目を覚まし始めている。魔導バスの低い駆動音。道路標識の上を泳ぐ広告竜の寝ぼけた声。朝食を売る屋台の湯気。遠くで鳴る駅の案内音声。それらはどれも、いつもの帝都エデンの朝だった。


 だが、修復室の中だけは、まだ夜の続きのようだった。


 修復台の上で、アリスは上体を起こしている。黒いメイド服は応急修復用の白い作業布に替えられ、胸部外装の一部はまだ開いたままだった。記録核周辺には薄い魔導封止帯が巻かれ、そこへ青白い診断光が規則的に走っている。


 右肩の外装は仮補修。左腕関節は固定具つき。脚部駆動系は動くが、長距離移動には補助が必要。コード002〈シールド〉には食害干渉痕が残り、コード007〈メイル〉は部分再展開まで。コード005〈ウィング〉はまだ使用不可。


 マナはその診断結果を睨みながら、片手で出発準備を進めていた。


 工具箱。携帯診断端末。予備の魔導結晶。記録核遮断用の緊急パッチ。アリス用の高濃度魔導バッテリー。封印干渉を受けた場合の一時切断具。使わずに済むのが最善だが、必要になった時に手元になければ手遅れになるものばかりだった。


 カリンは、部屋の隅で焼き菓子を食べていた。


 前回の戦闘で消耗しているはずなのに、見た目だけはいつも通りだった。黒い長髪はきれいに整えられ、淡い薔薇の香りがする。だが、アリスの感覚器は、カリンの魔導反応が通常より一四パーセント低下していることを検出していた。


「カリン様。休息を推奨します」


「もうしてるよぉ。座ってお菓子食べてる」


「休息と糖分摂取は同義ではありません」


「だいたい同じじゃない?」


「異なります」


 アリスが即答すると、カリンは頬を膨らませた。


「アリスちゃん、マナちゃんみたいなこと言うようになってきたねぇ」


「マナ様の健康管理発言を学習した可能性があります」


「学習しなくていいところを学習してる」


 マナが振り返らずに言った。


「それは学習していいところよ。カリン、あんたも後でちゃんと診るから」


「えー」


「えー、じゃない。大鎌使ったあと、魔導反応が乱れてる」


「アリスちゃんにバレて、マナちゃんにもバレた。情報漏洩だよぉ」


「身体が漏洩してるの」


 マナは鞄を閉じ、アリスの方へ向き直った。


「アリス。条件、もう一回確認する」


「はい」


 アリスは背筋を伸ばした。


「夢殿外郭研究区にて、ゼクス様による封印記録照合を受ける場合の条件は以下です。第一、記録核への直接接続はマナ様の立ち会いを必須とします。第二、零式人格領域の強制開封は禁止。第三、SHION-NO.9断片の自己人格統合は禁止。第四、アリスの同意なくALICE-00関連記録を開かない。第五、ゼクス様が不適切な発言をした場合、カリン様による制止を許可します」


 カリンが焼き菓子を持ったまま手を上げた。


「質問」


「どうぞ」


「ボク、今日護衛なの? ツッコミなの?」


 マナは即答した。


「両方」


「危険手当出る?」


「シンに請求して」


「絶対三倍になって返ってくるやつ」


「じゃあ、自腹」


「ひどい」


 アリスは真面目にカリンを見た。


「ゼクス様の不適切発言は、物理的制止を必要とする可能性がありますか」


 マナとカリンが同時に少しだけ黙った。


 その沈黙が、肯定だった。


「その可能性は高いわ」


 マナが言う。


「じゃあ、やっぱりボクの仕事だねぇ」


 カリンは焼き菓子を袋に戻し、指先を軽く払った。


「大丈夫。アリスちゃんに変なことしようとしたら、ボクがにっこり止めるから」


「にっこり」


「うん。にっこり」


 アリスは記録した。


 カリン様のにっこりは、物理的威嚇を含む可能性あり。


 マナは、修復台の横に立つ。


「本当に行ける?」


「はい。必要な情報があります」


「必要でも、嫌なら途中で帰る。それも条件に入れて」


 アリスは少し考えた。


 嫌なら帰る。


 これまでのアリスなら、その選択肢は優先度の低いものとして処理した。任務中止。解析中断。情報取得失敗。保護者の判断による撤退。自分から要求するものではない。


 しかし、第8話でマナは言った。


 命令ではない。お願い。

 拒否権が存在する。

 あなたを、ただの端末として扱いたくない。


 アリスは頷いた。


「解析継続が困難と判断した場合、アリスは帰還を要求できます」


「よし」


 マナは小さく笑った。


「それも大事」


 内側で、零式人格がぼそりと言った。


 ――遅いくらいだ。


 アリスは応答する。


 助言として記録します。


 ――またそれかよ。


 不満を示す声だった。だが、拒絶ではなかった。


 アツギ中枢区へ向かう移動車両は、ホウジュ区の明るい商業道路を抜け、次第に帝都の中心部へ近づいていった。


 街の顔が変わっていく。


 ホウジュ区では、朝の店先に商品が並び、観光客が端末を片手に通りを歩き、広告竜が空に浮かんでいた。だがアツギ中枢区へ入る境界を越えると、建物は高く、白く、硬くなった。壁面には女帝ヌルの紋章。交差点にはワルキューレ直属の警備機械人形。広い道路の中央には魔導炉出力を示す青い塔が立ち、上空には目に見えない結界の層が薄い光として揺れている。


 夢殿は、その奥にあった。


 市民が遠くから見る夢殿は、神殿のように見える。白い石の階段。金色の柱。空へ伸びる尖塔。祈りのための広場。静かに流れる水路。女帝の光を象徴する円環紋章。帝都エデンが単なる都市ではなく、神の支配する人工楽園であることを示すための巨大な舞台装置。


 だが、アリスたちが向かうのは、その表玄関ではない。


 夢殿外郭研究区。


 女帝政府の封印技術管理室という名目で登録されているが、実態はワルキューレ第六位ゼクスの研究区画である。


 入口までは神聖だった。


 白い石柱。無音で動く警備機械人形。床に描かれた金色の封印円。壁のニッチには小さな女帝像。空気は清浄で、香のような魔導清浄剤の匂いがした。


 しかし、通路を進むほど、景色が崩れていった。


 壁から用途不明のケーブルが生える。床に金属部品が転がる。女帝紋章の横に「触るな」「感電する」「たぶん爆発する」「たぶんではなく爆発した」と書かれた札が貼られている。警備機械人形の横を、小型の修理アームが忙しなく走り回っている。天井には何かの義体用関節が吊られ、その下に菓子の包み紙が落ちていた。


 カリンが引きつった笑みを浮かべた。


「夢殿って、もっと神々しい場所じゃなかったっけ?」


 マナはため息をついた。


「ゼクスの研究区だけ、神聖さが死んでるのよ」


「神聖さは死亡する概念ですか」


 アリスが問う。


「ここではするんじゃないかなぁ」


 カリンが答えた。


 マナは扉の前で足を止める。


 扉には、正式な表示がある。


 夢殿外郭研究区。

 第六封印技術管理室。

 責任者:ワルキューレ第六位ゼクス。


 その下に、手書きで小さく書かれていた。


 入室前にノックせよ。

 爆発音が聞こえた場合は五分待て。

 悲鳴が聞こえた場合は種類による。


「種類によるって何?」


 カリンが眉をひそめる。


「聞かない方がいい」


 マナはノックした。


 中から声がした。


「開いとるでー。爆発は今のところしてへん」


「今のところ」


 カリンが小声で言う。


 マナは扉を開けた。


 中は、混沌だった。


 広い研究室のはずなのに、床面の半分以上が物で埋まっている。分解された機械人形の腕。魔導炉の縮小模型。破損したワルキューレ兵装。何に使うかわからない義体の目。封印観測用の巨大な輪。壁一面を覆う端末群。勝手に動き続ける小型機械。寝床らしきソファ。その上に積まれた資料。資料の上に置かれた食べかけの菓子。菓子の横に「食べるな。たぶん毒ではない」と書かれた札。


 研究室の中央に、ひとりの人物がいた。


 白衣に似た服を着ているが、白衣というより作業用の外套だった。袖には魔導焼けの跡。腰には工具。髪はざっくり束ねられ、片目には薄い光を帯びた解析用レンズ。整った顔立ちをしているが、笑い方が悪い。


 ゼクス。


 ワルキューレ第六位。女帝側の科学顧問。帝都の封印技術と魔導科学を扱う、最悪の天才。


 ゼクスはアリスを見るなり、目を輝かせた。


「おお、来た来た。セーフィエル製の封印補助人形、しかも本編後の再構成負荷を受けて壊れかけ。最悪やな。最高に面白いけど」


「面白がらないで」


 マナが即座に言った。


 ゼクスは肩をすくめる。


「面白がらんかったら、怖すぎて泣くわ」


 その言い方は軽い。だが、アリスはゼクスの目を見た。軽薄な興味だけではない。そこには、危険な事態を正確に理解している者の冷静さがあった。


 アリスは修復用の補助具をつけたまま、丁寧に礼をした。


「アリスでございます。解析にあたり、事前条件を提示します」


 ゼクスの目がさらに輝いた。


「おっ、利用規約持ちの機械人形。ええやん。自分の境界線を文面化しとる」


「茶化さない」


 マナが低く言う。


「茶化してない。褒めとる。セーフィエルが見たら、悔しがるで」


 アリスはその言葉に反応した。


「セーフィエル様が、悔しがる」


「せや。あの魔女は、設計したものが設計外の自己主張するの嫌いやろうからな」


「ゼクス」


 マナの声が鋭くなる。


 カリンも少しだけ笑顔を深くした。その笑みの奥に、大鎌の気配が薄く浮かぶ。


 ゼクスは両手を上げた。


「わかった。言い方を変える」


 ゼクスはアリスを見た。


「アリス。君が条件を出すのは正しい。ここでは、それが命綱になる」


 アリスは、ゼクスの顔を見返した。


 茶化している。

 しかし、嘘ではない。


「条件を提示します」


「聞こうや」


 アリスは一つずつ読み上げた。


 記録核への直接接続はマナの立ち会いを必須とする。零式人格領域の強制開封は禁止。SHION-NO.9断片の自己人格統合は禁止。アリスの同意なくALICE-00関連記録を開かない。解析継続が困難な場合、アリスは帰還を要求できる。ゼクスの不適切発言は、カリンによる制止を許可する。


 最後の項目で、ゼクスは笑った。


「カリン制止条項つきか。豪華やな」


「必要と判断しました」


「必要やと思うで」


 ゼクスは頷いた。


「条件は受ける。今回は君を開けへん。君の中に残っとる断片の“影”だけ借りる。鍵穴に鍵を突っ込むんやなくて、鍵の形を紙に写して照合する感じや」


「記録核への直接接続ではない、ということですか」


「せや。君の利用規約第一条に配慮しとる」


 カリンが横で言う。


「ゼクスさんが配慮って言うと不安になるねぇ」


「信用ないなぁ」


「ない」


 マナが即答した。


 ゼクスは楽しそうに笑った。


「正直でよろしい」


 研究室の奥へ進む。


 そこには、円形の台座があった。床から浮かぶ複数の魔導輪。輪の内側には細い文字がびっしり刻まれている。台座の周囲には封印記録へアクセスするための端末群が並び、上空には夢殿側の封印管理領域と接続するための光の線がいくつも吊り下がっていた。


 神殿の儀式台にも、科学実験装置にも見える。


 ゼクスは台座を軽く蹴った。


「これが夢殿封印記録への仮接続装置。正式名称は長いから省く」


「正式名称を記録する必要はありますか」


「記録してもええけど、途中で嫌になるで」


「では省略します」


「賢明や」


 アリスは台座の中央に立った。


 マナが横に来て、アリスの肩へ手を置く。触れ方は軽い。固定ではなく、確認するような触れ方だった。


「嫌なら言って」


「はい」


 カリンは少し後ろに立ち、片手を宙に浮かせた。そこに大鎌はまだない。だが、必要ならすぐ取り出せる姿勢だった。


 シンの通信がモニターに接続される。


『外部ログ監視、開始。夢殿の奥には入らないからね。僕は自分の名前がまだ八割五分しか戻っていないんだ』


 カリンが言う。


「ちょっと増えてる」


『努力の成果だ』


 ゼクスが画面を見て笑う。


「都市の情報網に住み着いた野良猫が偉そうに」


『研究室に住み着いた爆発物に言われたくないね』


「ええ返しや」


「仲いいの?」


 カリンが聞く。


「悪い」


『悪いね』


 二人の声が重なった。


 ゼクスが装置を起動した。


 魔導輪が一つずつ回転を始める。白い光がアリスの周囲に立ち上がる。直接記録核に触れているわけではない。だが、胸の奥にあるSHION-NO.9断片が、薄く震えた。


 モニターに表示が走る。


 SHION-NO.9 FRAGMENT:外部照合開始。

 ALICE-00 RELATED SIGNAL:検出。

 NO.9 ARCHIVE:反応。

 DREAM PALACE SEALED RECORD:接続待機。


 アリスの視界が白くなった。


 そこは、白い廊下だった。


 第8話で見た白い部屋と似ている。だが、今回はもっと構造的だった。左右に無数の扉が並んでいる。扉は高く、冷たく、どれも同じ形をしていた。扉の上にはワルキューレの番号が刻まれている。


 EINS。

 ZWEI。

 DREI。

 VIER。

 FUNF。

 SECHS。

 SIEBEN。

 ACHT。


 そして、九番目だけが黒く塗り潰されていた。


 NEUN。


 その扉だけ、プレートが傷のように削られている。名前を消されたのではない。名前へたどり着く道そのものを、乱暴に塗り潰したような痕だった。


 アリスが近づくと、内側で零式人格が言った。


 ――嫌な場所だな。


「同意します」


 ――素直だな。


「不快感の判定が一致しました」


 ――言い方。


 外側からマナの声が届く。


『アリス、見えているものを報告して』


「白い廊下を確認。左右に扉。ワルキューレと思われる番号表示あり。第九位に相当する扉のみ黒く塗り潰されています。表示はNEUN。削除痕あり」


 ゼクスの声が重なる。


『その扉、開けるな。まだ鍵が足りん。今日は外縁を見るだけや』


「承知しました」


 アリスは扉の前で止まった。


 開けない。


 そう判断した。


 だが、扉の隙間から声が漏れた。


「おとうさま」


 アリスの指がわずかに動く。


 零式人格が即座に言う。


 ――行くな。


「開けません。ただし、記録断片の反応を確認します」


 NEUNの扉の下から、白い光が流れ出した。床を這うように広がり、アリスの足元で形を変える。その光の中に、古い映像の断片が混ざっていた。


 暗い部屋。

 揺れる青白い光。

 小さな手。

 巨大な門の影。

 耐えている息。

 そして、見えない誰かの背中。


 アリスは、それを保存しようとして、すぐに処理を止めた。


 外部由来記録。

 自己人格への統合、停止。

 保護のみ。


 零式人格が黙っている。


 承認ではない。だが、止めもしない。


 白い廊下の奥に、別の扉が開いた。


 NEUNの扉そのものではない。関連記録室。表示は、ALICE-00。


 ゼクスの声が届く。


『そっちや。NEUNは開けるな。関連記録だけ見る』


 アリスはALICE-00の扉へ向かった。


 中は、白い記録室だった。


 中央に、透明な棺のような記録装置がある。中身は見えない。見えないようにされているのか、まだ記録が足りないのか、判別できない。ただ、その周囲に設計図が宙に浮かんでいた。


 文字列が表示される。


 ALICE-00。

 用途:封印負荷観測。

 補助用途:記録保存。

 代替器候補。

 関連:SHION-NO.9。

 作成者:SAFIEL。

 状態:凍結。

 備考:拒絶反応、強。

 名称付与:保留。


 アリスは読み上げた。


「代替器候補」


 内側で、零式人格が低く笑った。


 ――聞いたか。器だってよ。


 アリスは沈黙した。


 ――また誰かの痛みを入れる箱にされる。


 零式人格の声には、明確な怒りがあった。


 ――笑って聞いてんじゃねぇ。怒れ。


「怒りを検出しています。しかし、現在の最優先は記録の把握です」


 ――だからおまえは――


 言葉が途中で止まった。


 外側から、マナの声が届いた。


『アリス。無理に読まなくていい』


 アリスは答える。


「読まなければ、わたくしの構造を理解できません」


『理解することと、傷つくことを同時にやらなくていい』


 アリスの処理が一瞬止まる。


 理解すること。

 傷つくこと。

 同時でなくてよい。


 その時、ゼクスの声が入った。


『補足するで。ALICE-00は、単なる機械人形の試作機やない。シオン=ノインにかかっとった封印負荷を観測して、記録して、理論上は一部肩代わりするための予備器や』


「予備器」


『せや。成功すれば、シオン一人に集中しとった負荷を、機械側へ逃がせたかもしれん。まあ、実際は拒絶反応が強すぎて凍結。セーフィエルは“廃棄ではない、凍結”と書いとる』


 ゼクスの声が、少しだけ皮肉に歪む。


『それ、廃棄できんかっただけやろ』


 マナの声が低くなる。


『ゼクス』


『事実や。あの魔女は捨てられへんかった。娘も、記録も、器も、自分の失敗も』


 その言葉が、アリスの中に沈んだ。


 セーフィエルが捨てられなかったもの。


 シオン。

 ALICE-00。

 アリス。

 零式人格。

 記録。

 失敗。

 未練。


 アリスは問う。


「わたくしは、ALICE-00の後継機ですか」


 ゼクスは、珍しくすぐには答えなかった。


 少しだけ間があった。


『技術的には、系譜上におる』


「系譜上」


『でも、同じものではない。君はALICE-00やない。シオンでもない。セーフィエルの未練だけでもない。そこは安心しろ、と言いたいところやけど、安心できる材料は少ない』


 カリンの声が割り込む。


『優しい言い方を仕入れてから来て』


『ワルキューレには在庫ないんや』


 シンの通信が重なる。


『その台詞、僕の専売特許に近いね』


『野良猫は黙っとき』


『研究室に住み着いた爆発物に言われたくないね』


 夢殿削除記録領域の白い部屋で、アリスはその掛け合いを聞いていた。


 いつもの声。


 マナ。カリン。シン。ゼクス。零式人格。


 たくさんの声が、アリスを外側から呼び戻す。


 アリスは設計図の前に立つ。


 記録室の中央、透明な棺の周囲に、さらに古い映像が浮かび上がった。


 白い研究室。


 若いセーフィエルの手。

 透明な棺。

 棺の中に眠る少女型機械人形。

 顔はノイズで覆われ、完全には見えない。

 胸部には仮の記録核。周囲には封印負荷を測る魔導針。

 背後の壁には、タルタロス封印系統を示す黒い図面。


 セーフィエルの音声が再生された。


『零式人格領域、拒絶反応が強すぎる』


 アリスの記録核が揺れる。


『封印負荷を受け入れない』


 零式人格が内側で叫んだ。


 ――受け入れない、じゃねぇ。


『名称付与は保留』


 ――嫌だったんだよ。


『このままでは、器として不安定』


 ――入れられたくなかったんだよ。


『廃棄ではない。凍結する』


 映像の中のセーフィエルの手が、棺に触れる。


『いつか、必要になるかもしれない』


 その声は、優しかった。


 けれど、その優しさが痛かった。


 アリスは内側へ問いかける。


「あなたは、ALICE-00の拒絶反応なのですか」


 零式人格は黙った。


 完全には否定しない。

 だが、肯定もしない。


 やがて、低く言った。


 ――知らねぇ。


 少し間が空く。


 ――でも、嫌だったことだけは覚えてる。


 アリスは、その声を保存した。


 嫌だったことだけは覚えている。


 それは、記録なのか。感情なのか。記憶なのか。拒絶反応なのか。アリスにはまだ分類できない。


 だが、分類できないからといって、不具合として捨てていいものではない。


「わたくしは、あなたを拒絶反応として処理しません」


 零式人格が沈黙した。


 そして、少しだけ遅れて言った。


 ――……今それ言うな。


「不適切でしたか」


 ――不意打ちだった。


「謝罪します」


 ――謝んな。


「では、謝罪を保留します」


 ――そういうとこだよ。


 現実側の研究室で、警告音が鳴った。


 アリスの身体が台座の上でわずかに傾く。記録核の光が不安定になり、魔導輪の回転が乱れる。


 マナがアリスの肩を支えた。


「アリス、戻って」


 ゼクスが端末を見た。


「ここで止めた方がええ。これ以上は、アリスの同意条件に引っかかる」


 マナが驚いたようにゼクスを見る。


「あなたが止めるの?」


「当たり前や。壊れたら続きが見られへん」


 その瞬間、カリンの周囲に冷たい薔薇の香りが広がった。大鎌はまだ出ていない。だが、空気の温度が一段下がる。


「今の言い方」


 ゼクスは、ほんの少しだけ姿勢を正した。


「……訂正する。壊したら、誰かの名前を持った個体を失う。それは研究以前に、損失や」


「まだ言い方が悪い」


 マナが言う。


「努力はした」


「努力の方向がずれてる」


「よく言われる」


 接続が切られ、アリスの意識は現実へ戻った。


 台座の上で、アリスはゆっくり目を開ける。マナの手が肩にある。カリンがすぐそばにいる。ゼクスは端末を見ている。シンの通信画面には、外部ログが流れている。


 アリスは、ゼクスを見た。


「ゼクス様は、アリスを検体として見ていますか」


 研究室の空気が止まった。


 マナが一歩前に出かける。


 ゼクスは、少しもごまかさなかった。


「見とる」


 マナの目が鋭くなる。


 ゼクスは続けた。


「同時に、個体としても見とる。せやから、利用規約を守る。検体扱いだけなら、同意なんて要らんからな」


 アリスは、その言葉を処理した。


 優しくない。

 だが、嘘ではない。

 検体。

 個体。

 同意。

 利用規約。


「回答を保存します」


 ゼクスは少し笑った。


「アリス。君が自分の条件を出したのは正しい。セーフィエルの設計思想から外れる第一歩や」


「設計思想から外れる」


「作られた目的から外れる、という意味や」


 ゼクスは、机の上に転がっていた小さな機械部品をつまんだ。


「道具は目的に従う。個体は条件を出す」


 アリスはその言葉を保存した。


 道具は目的に従う。

 個体は条件を出す。


 その時、シンの声が鋭くなった。


『待った。今のNO.9記録、誰かが先に触っている』


 マナが振り向く。


「マッドイーター?」


『違う。マッドイーターなら食害痕が残る。これは暗号だ。古い。しかも、音楽構造をしている』


 ゼクスの表情が変わった。


「見せてみ」


 シンが外部ログを転送する。ゼクスの端末に、意味不明な文字列が走った。アルファベット、魔導記号、拍子記号、古い祈祷符、波形データ。普通に見れば壊れたログだ。だが、ゼクスは指を動かし、いくつかの層を重ねた。


 文字列が、五線譜のような配置を取る。


 拍が現れる。


 音符が浮かぶ。


 そこに、旧式魔導暗号が重なっていた。


 ゼクスの声が低くなる。


「これは……D∴C∴の旧式暗号やな」


「D∴C∴」


 マナの顔が険しくなった。


 カリンも眉をひそめる。


「また嫌な名前出たねぇ」


 アリスは問う。


「D∴C∴とは、何ですか」


 マナはすぐには答えなかった。


 代わりに、ゼクスが答える。


「闇の子のノイズを神託やと思い込んどる連中。正しく受信できへんのに、受信した気になって都市を壊す迷惑な信者や」


 シンが補足する。


『残党だ。大きな組織としては潰れている。だが、ノイズは残る。古い信仰、古い暗号、古いテロ計画は、消えたふりをして地下に残る』


 ログの中から、短い語句が浮かび上がった。


 NEUN。

 ALICE-00。

 RESONANCE。

 CHORALE。

 SCHWEIZ。

 AWAKE THE UNCALLED NAME。


 ゼクスが呟く。


「シュバイツ」


 マナが低く言う。


「生きてるの?」


「少なくとも、名前は残っとる」


 アリスは問う。


「シュバイツ様とは」


 マナが答えた。


「D∴C∴の残党。音で記録層へ干渉する魔導音楽家」


「音」


 アリスは、記録核の奥で微かな違和感を覚えた。


 先ほどのログは文字ではなかった。

 音だった。

 名前を呼ぶための、古い旋律。


 カリンが軽く肩をすくめる。


「つまり次は音楽会?」


 シンが画面越しに言った。


『悪趣味な音楽会だね』


 ゼクスは端末を閉じた。


「今日の接続はここまでや。これ以上触ったら、アリスの利用規約に違反するし、何より音が混ざる」


「音が混ざると、何が起きますか」


 アリスが問う。


 ゼクスは、少しだけ考えた。


「君の中にある断片が、誰かの楽器にされる」


 研究室の空気が冷えた。


 内側で、零式人格が小さく言った。


 ――やっぱり、使う気だ。


 アリスは答える。


 まだ断定できません。


 ――断定できる頃には遅いんだよ。


 アリスは、その警告を保存した。


 接続は完全に終了した。


 SHION-NO.9断片は外部由来保護記録として隔離継続。ALICE-00関連記録の一部を取得。D∴C∴旧式暗号を検出。アリスの記録核は疲弊しているが、自己人格領域への侵食は確認されていない。


 マナは不本意そうにゼクスを見た。


「助かったわ。悔しいけど」


「悔しがらんでええ。次も高いで」


 カリンが言う。


「シンくんみたいなこと言ってる」


 通信画面のシンが即座に返す。


『一緒にしないでほしいね』


 ゼクスも同時に言った。


「こっちの台詞や」


 アリスはゼクスへ向き直り、礼をした。


「ゼクス様。条件を遵守していただき、感謝します」


 ゼクスは面白そうに笑った。


「どういたしまして。次に来る時は、利用規約をもう少し長くしとき。君はまだ、自分の守り方が甘い」


「助言として記録します」


「それと、アリス」


 ゼクスの声が、少しだけ変わった。


 軽さが消えたわけではない。だが、奥にある真剣さが、表面へ出てきた。


「君は封印負荷を受けるために作られた系譜におる。これは技術的事実や」


 アリスは黙って聞いた。


「でもな、技術的事実は人生の結論やない」


「人生」


「せや。機械人形に人生って言葉が似合わんと思うなら、稼働史でも存在履歴でもええ。でも、ワタシは人生って言う」


 ゼクスは、端末に映るALICE-00の記録をちらりと見た。


「セーフィエルは、そこを間違えた」


 マナは何も言わなかった。


 カリンも黙っていた。


 アリスは、その言葉を保存した。


 技術的事実は、人生の結論ではない。


 夢殿外郭研究区を出ると、アツギ中枢区の朝はすっかり明るくなっていた。


 白い行政棟が光を反射し、女帝の紋章が空の下で輝いている。広場では、通勤する職員たちが静かに行き交っていた。祈りの小広場では、数人の市民が女帝像の前に立ち、今日の無事を願っている。遠くにはヴァルハラ宮殿の影が見えた。さらに奥、一般市民の立ち入りが許されない方向に、夢殿の中枢がある。


 その秩序は美しかった。


 白く、整い、静かで、無駄がない。


 しかし、アリスはもう知っている。


 この都市の秩序の下には、消された名前がある。


 NEUN。

 SHION。

 タルタロス封印の楔。

 セーフィエルが手放せなかったもの。

 ALICE-00という予備器。

 拒絶反応。

 凍結。

 そして、アリス自身の系譜。


 アリスは足を止めた。


「マナ様」


「何?」


「わたくしは、封印負荷を受けるために作られた可能性があります」


 マナは、アリスを見た。


「そうかもしれない」


 マナは否定しなかった。


 アリスは続ける。


「その場合、わたくしは道具ですか」


「違う」


 今度は、即答だった。


 マナは一歩も迷わなかった。


「作られた目的が道具でも、今ここにいるあなたを道具にする理由にはならない」


 アリスはその言葉を受け取った。


 作られた目的。

 今ここにいる自分。

 同一ではない。


 カリンが横から言った。


「アリスちゃんが誰かの箱にされそうになったら、ボクが箱ごと持って逃げるよぉ」


「箱ごと」


「うん。中身も外側もアリスちゃんだからね」


 カリンは笑った。


「箱って言い方は変だけど」


「変です」


「自分で言ったのに?」


「はい。ですが、意味は理解しました」


 アリスは、その言葉も保存した。


 中身も外側もアリス。


 通信端末が鳴る。


 シンからだった。


『D∴C∴旧式暗号の音響構造を追う。キーワードはシュバイツ。ホウジュ区の古い魔導音楽ホールに、似た波形が残っている』


 マナの表情が引き締まる。


「次はホウジュ区ね」


 カリンが軽く髪を払った。


「音楽会かぁ。ドレス着て行く?」


「戦闘を想定した服装を推奨します」


 アリスが言うと、カリンは楽しそうに笑った。


「戦えるドレスなら問題ないねぇ」


「問題の定義が不明です」


「かわいくて動ければ勝ち」


「勝敗基準が曖昧です」


「そこがいいんだよぉ」


 アリスは、カリンの言葉を半分だけ記録した。もう半分は、分類保留にした。


 歩き出す。


 白い中枢区の朝の中を、マナとカリンと共に。


 アリスの記録核の奥で、SHION-NO.9断片が微かに反応した。だが、今回はそれがアリスの人格領域へ流れ込むことはなかった。外部由来保護記録として隔離されている。境界はまだ脆い。だが、存在している。


 少女の声がする。


「わたしを、もう使わないで」


 アリスは、内側で答えた。


「はい。あなたを、わたくしの目的にはしません」


 その直後、別の音が聞こえた。


 ピアノの低い一音。


 あるいは、古いパイプオルガンの和音。


 深く、長く、帝都の地下を震わせるような音。


 それはまだ遠い。

 けれど、確かにアリスの名を探していた。


 夢殿の消えた記録に残されていたのは、名前ではなく、次にアリスを呼ぼうとする古い旋律だった。

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