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第10話 荒波の旋律

 ホウジュ区の朝は、いつも少しだけ騒がしい。


 ギガステーションの巨大な屋根の下で、魔導バスが低く唸る。商店街のシャッターが次々と上がり、焼き菓子の匂いと、揚げ油の匂いと、簡易魔導炉の熱の匂いが混ざって流れてくる。空には広告竜が泳ぎ、女帝ヌルの朝の御言葉を宣伝音声に乗せて繰り返していた。


 帝都エデンの中では、ホウジュ区は比較的わかりやすい街だった。


 買う。食べる。働く。迷う。笑う。怒る。帰る。


 死都東京の黒い結界も、裁きの門の神話も、タルタロス封印の楔も、ここでは遠い。もちろん本当に遠いわけではない。帝都エデンのどこにいても、その底には同じ封印と同じ罪が敷かれている。けれど、ホウジュ区の朝は、それを忘れさせるだけの明るさを持っていた。


 駅前広場の案内塔が、いつも通りに光った。


『本日も帝都エデン交通をご利用いただき、ありがとうございます。次の魔導バスは、ミナト区方面、ツインタワー西ゲート行き――』


 そこで、音が少しだけ歪んだ。


『――旧第九停留所、ノイン記念――』


 通勤客の一人が足を止めた。


「え?」


 案内塔はすぐに通常の音声へ戻った。


『――ツインタワー西ゲート行きです。発車まで三分です』


 男は端末を見た。表示に異常はない。路線図にも、旧第九停留所などという場所は存在しない。


「寝ぼけてるな」


 男はそうつぶやき、歩き出した。


 交差点では、信号音が鳴っていた。


 いつもの電子音ではない。


 古いピアノ曲の、三音だけの短い旋律だった。


 青。

 赤。

 青。

 赤。


 そのたびに、鍵盤を指で軽く叩くような音が、街の底へ染み込んでいく。


 カフェの店内では、開店準備をしていた店員が首を傾げた。


「店長、BGM変えました?」


「いや? 朝はいつもの女帝礼賛ポップスだろ」


「今、子守歌みたいなの流れてますけど」


 天井のスピーカーから、低いパイプオルガンの音がした。ゆっくりとした、優しい、眠りへ誘うような旋律。だが、その下に、潮騒のような音が混じっていた。


 ざざん。


 ざざん。


 波が寄せては返す音。


 ホウジュ区に海はない。


 駅前の広告竜が、女帝政府の観光広告を流していた。


『帝都エデンへようこそ! 魔導科学と歴史の都――』


 途中で声が変わる。


『ねんねん、ころりよ』


 通行人たちが見上げた。


 広告竜は、空中でゆっくり旋回しながら、同じ子守歌を歌い続ける。複数の広告竜が、別々の高さで、同じ旋律を少しずつずれた拍で歌っていた。


 ずれた声は、美しくなかった。


 だが、耳に残った。


 商店街の清掃機械人形が、モップを持ったまま停止した。


「名称照合中」


 胸部の小さなランプが青く点滅する。


「応答待機」


 隣の受付機械人形も、笑顔のまま動きを止めた。


「呼称未確認」


 通行人の若い女性が、急に振り返った。


「今、呼ばれた気がした」


 一緒にいた友人が聞く。


「誰に?」


「わからない。でも、呼ばれた」


「名前?」


「ううん。名前じゃない。もっと昔の……」


 女性はそこで言葉を失った。


 記憶の奥で、もう使わなくなった幼い呼び名が揺れた。祖母だけが呼んでいた名。小学校に上がる前に消えた名。自分でも忘れていたはずの声。


 街の音が、少しずつずれていく。


 その異常は、遠く離れたマナの修復室にも届いた。


 アリスは修復台の上にいた。


 第9話で夢殿外郭研究区から戻った後、マナはアリスの外装と基礎回路の再調整を続けていた。夢殿削除記録領域への仮接続は、想定以上にアリスへ負荷をかけていた。記録核そのものは安定している。SHION-NO.9断片も外部由来保護記録として隔離されている。だが、ALICE-00関連記録へ触れた影響は、まだ胸の奥に薄いざらつきとして残っていた。


 マナは工具を片手に、アリスの肩部外装を閉じていた。


「腕、動かして」


「はい」


 アリスは左腕をゆっくり持ち上げた。


「痛みは?」


「物理的痛覚はありません」


「違和感は?」


「左肘部駆動に三パーセントの遅延。日常動作には支障なし。戦闘動作には補正が必要です」


「戦闘動作はしない」


「本日中に戦闘が発生する可能性は否定できません」


「否定させて」


「事実と希望は異なります」


「誰に似たの、その言い方」


 マナは苦笑した。


 その瞬間、修復室の端末が短く鳴った。


 いつもの通知音ではなかった。


 鍵盤を叩くような、短い三音。


 アリスの胸の奥で、同じ音が鳴った。


「――」


 アリスの身体がわずかに硬直する。


 マナがすぐに気づいた。


「アリス?」


「記録核に音響性干渉を検出」


 声はいつも通り丁寧だった。だが、発話までに一拍の遅れがあった。


 マナは端末へ飛びつく。


「音響性? 物理音?」


「不明です。聴覚センサーだけでなく、記録核に直接振動様の干渉があります」


 修復室のラジオが勝手に点いた。


 古い子守歌。


 次に、診断端末の警告音が同じ旋律へ変わる。魔導計測器のビープ音、通信端末の着信音、室内時計の時報。すべてが、少しずつ同じ旋律へ寄っていく。


 マナの表情が変わった。


「始まった」


 アリスは胸元へ手を当てた。


 音は、耳で聞こえているだけではなかった。記録核の奥で、誰かが鍵盤を叩いている。黒い海の底から、低い和音が上がってくる。音の波が、アリスの中にある名前を探している。


 ALICE。

 ALICE-00。

 NEUN。

 RESONANCE。

 AWAKE。


 文字ではない。

 だが、意味を持つ波形。


 内側で、零式人格が低く言った。


 ――この音、嫌いだ。


 アリスは問いかける。


「識別可能ですか」


 ――知らねぇ。でも、嫌いだ。


 声は荒い。だが、いつもより鋭い。


 ――勝手に呼ばれてる感じがする。


「勝手に呼ばれている」


 アリスは復唱した。


 マナが振り向く。


「零式人格?」


「はい。強い嫌悪反応を示しています」


「内容は?」


「『この音、嫌いだ』『勝手に呼ばれている感じがする』」


 マナは端末を叩いた。


「シンに繋ぐ」


 通信はすぐにつながった。


 画面に映ったシンは、すでに複数のモニターに囲まれていた。背後には、ホウジュ区の音響ログ、駅案内、街頭広告、警備機械人形の音声出力、店舗BGM、広告竜の放送波形がずらりと並んでいる。


『そっちにも来たか』


「ホウジュ区?」


『全域だ。音は単一の発信源から流れているわけじゃない。広告網、駅案内、店内BGM、館内放送、警備機械人形の音声機能が同時に乗っ取られている。だが、基底波形は一つ』


「発生源は」


『旧ホウジュ魔導音楽ホール。第9話で検出したD∴C∴旧式暗号と一致する。波形名にSCHWEIZが残っている』


 マナは歯噛みした。


「シュバイツ」


 アリスは画面を見た。


「音源を遮断すれば停止しますか」


 シンは首を振る。


『厄介だね。耳を塞げば済む話じゃない。都市が耳になっている』


「都市が耳」


『ホウジュ区の音響系統そのものが共鳴器にされている。広告竜も、駅案内も、店内BGMも、警備機械人形の音声出力も、全部がシュバイツの楽器だ』


 マナは別端末で旧ホウジュ魔導音楽ホールの資料を呼び出した。


 閉鎖施設。

 再開発予定。

 帝都再編初期建造。

 旧式結界調律装置あり。

 地下、パイプオルガン型魔導音響装置。

 撤去未完了。


「最悪」


 マナが呟いた。


 別の通信窓が開く。


 ゼクスだった。


『朝からええ音鳴っとるやん』


「ふざけてる場合じゃない」


『ふざけてへん。音がええのと状況が最悪なのは両立するんや』


 ゼクスは画面の向こうで、波形を見ながら言った。


『シュバイツの音は、鍵やない。鍵穴を“鍵やと思い込ませる”音や』


 アリスは顔を上げた。


「鍵穴を、鍵と思い込ませる」


『せや。つまり、騙して開けるんや。封印式でも、記録層でも、人格領域でもな』


 マナの顔が険しくなる。


「何を開けようとしてる?」


 ゼクスは、アリスを画面越しに見た。


『君の中の、開けたらあかん場所やろな』


 アリスの記録核が、また鳴った。


 低い和音。

 黒い波。

 呼ばれていない名前。


 マナは即座に言った。


「アリスはここに残る」


「マナ様」


「本当は連れて行きたくない」


 マナの声は硬かった。


 アリスは静かに答える。


「しかし、発信源はわたくしの内部断片へ干渉しています。現場確認が必要です」


「わかってる。だから腹が立つの」


 マナは、工具箱を閉じた。


「連れて行く。でも条件つき。戦わない。記録核の境界維持を優先。異常が強くなったら即撤退。いい?」


「はい。境界防御を優先します」


 扉が開いた。


「音楽会なら、ドレスでしょ?」


 カリンが立っていた。


 黒いレースの短いドレス。動きやすいブーツ。手袋。首元には小さなリボン。背中の空間収納紋には、大鎌の気配が薄く宿っている。普段より少し華やかで、けれど足運びは完全に戦闘用だった。


 マナは目を細めた。


「なにその格好」


「音楽会でしょ?」


「戦闘よ」


「戦えるドレスだから大丈夫」


 カリンは軽く裾をつまんで回ってみせた。


 アリスは真面目に観察する。


「可動域、足捌き、武装展開位置、隠密性、威嚇効果を確認。戦闘を想定した服装として、機能性を評価します」


「ほら、アリスちゃんはわかってる」


「わかってないのよ」


 マナは額を押さえた。


 カリンはアリスに向かって片目をつむる。


「大丈夫。変な名前で呼ばれそうになったら、ボクがちゃんと呼ぶから」


「はい。お願いします、カリン様」


「うん。アリスちゃん」


 その名前で呼ばれた瞬間、記録核の奥で鳴っていた和音が少しだけ弱まった。


 アリスは、それを記録した。


 外部呼称「アリスちゃん」。

 音響干渉に対する安定化効果あり。


 三人はホウジュ区へ出た。


 異常は、すでに街全体へ広がっていた。


 商店街の看板は通常通り光っている。人々も歩いている。店も開いている。表面だけ見れば、事件というほどの混乱ではない。けれど、音だけが違っていた。


 駅の案内音声が、ときどき存在しない停車駅を告げる。


『次は、旧第九停留所。お降りの方は、忘れた名前をお持ちください』


 信号機は、潮騒のような音を鳴らしている。


 ざざん。

 ざざん。


 広告竜は、女帝の朝の言葉ではなく、同じ子守歌を歌っていた。


 広場の清掃機械人形は十体ほど並んだまま停止し、同じ音階を繰り返している。


「ド、ミ、ラ、ミ」


「呼称未確認」


「ド、ミ、ラ、ミ」


「応答待機」


 若い母親が、ベビーカーを押しながら立ち止まっていた。


「今、母に呼ばれた気がして」


 隣の夫が困惑している。


「お義母さん、去年亡くなっただろ」


「でも、確かに」


 別の男性は、頭を抱えていた。


「昔の名前で呼ばれた。もう誰も知らないはずなのに」


 女子学生たちは笑いながらも、不安そうに耳を押さえている。


「なんかさ、誰かに呼ばれてる感じしない?」


「する。でも名前じゃないんだよね」


「じゃあ何?」


「わかんない。わかんないけど、返事しちゃいけない気がする」


 アリスの胸の奥で、音が強くなった。


 その音は、アリスを「アリス」とは呼ばなかった。


 ALICE-00。

 NEUN。

 代替器。

 封印補助。

 空白の器。


 音は言葉ではない。けれど、意味だけが押し込まれてくる。


 アリスは足を止めた。


 視界の端が黒く波打つ。


 内側で、零式人格が荒く叫んだ。


 ――その名前で呼ぶな。


 音は続く。


 ALICE-00。


 ――勝手に呼ぶな。


 NEUN。


 ――開けようとしてる。


 アリスの膝がわずかに揺れた。


「アリスちゃん」


 カリンの声がした。


 はっきりと、外から。


「アリスちゃん、聞こえてる?」


 アリスは顔を上げた。


「はい。アリスです」


 カリンは頷いた。


「うん。今の返事、大事」


 マナもアリスの横に立つ。


「呼ばれた名前に、応答しなきゃいけないわけじゃない」


 アリスはマナを見る。


「呼ばれた名前に、応答しなければならないのでしょうか」


「呼ばれても、返事しなくていい名前はある」


 マナの声は、シュバイツの音より近かった。


「誰かが勝手に呼んだ名前に、あなたが返事する義務はない」


 アリスは、その言葉を記録した。


 返事しなくていい名前がある。


 ホウジュ区の路地を抜け、旧ホウジュ魔導音楽ホールへ向かう。


 街の音は、近づくほど濃くなった。音が空気に混ざっているのではない。音そのものが空気の密度を変えている。看板の光が波打ち、窓ガラスが低く震え、石畳に刻まれた古い結界線が淡く浮かび上がっていた。


 路地の途中で、三体の機械人形が立っていた。


 作業用の簡易機械人形。塗装は剥げ、目の光は濁っている。本来なら近くの店舗で搬入作業をしている機体だろう。その胸部スピーカーから、同じ和音が流れていた。


「ALICE-00」


 アリスの記録核が軋む。


「起動せよ」


 カリンが一歩前に出た。


「どいてくれる?」


「封印負荷を受け入れよ」


 機械人形の腕が持ち上がる。指先に魔導火花。音の糸のようなものが、アリスへ伸びる。


 カリンの周囲に薔薇の香りが広がった。


「音楽会の前に、前座が多いねぇ」


 空間が裂けるようにして、大鎌が現れる。


 カリンは踏み込んだ。ドレスの裾が翻る。大鎌の刃は機械人形そのものを切らず、その身体に絡みつく音の糸だけを斬った。


 音が弾ける。


 機械人形たちの動きが止まる。


「名称照合中……」


 カリンは二体目、三体目の糸も切る。動きは軽い。黒いドレスで踊るように、刃が弧を描く。


「綺麗でも、嫌なものは嫌だよ」


 最後の機械人形が、アリスへ顔を向けた。


「ALICE-00」


 その瞬間、アリスの口が勝手に動きかけた。


 内側から、零式人格が押し上げてくる。


「その名前で――」


 声が荒くなった。


 マナが気づく。


「アリス!」


 アリスは、自分で止めた。


 怒りを押し殺すのではない。怒りを言葉へ変える。


「……呼ばないでください」


 機械人形のスピーカーがノイズを吐いた。


 カリンが最後の音の糸を断つ。


 機械人形は、その場に崩れるように膝をついた。破壊されてはいない。音から切り離されただけだった。


 マナがアリスを見た。


「今の」


「零式人格の発話が表層に出かけました」


「でも、止めた」


「はい。怒りを、自分の言葉に変換しました」


 カリンが微笑んだ。


「いいじゃん。ちゃんと嫌って言えた」


 アリスは胸元に手を当てた。


「はい。嫌でした」


 零式人格が内側で小さく言う。


 ――最初からそう言え。


 アリスは答える。


 学習中です。


 ――遅い。


 ですが、進行中です。


 零式人格は、それ以上言わなかった。


 旧ホウジュ魔導音楽ホールは、再開発区域の奥にあった。


 かつては華やかな建物だったのだろう。外壁には女帝時代初期の装飾が残り、入口の上には壊れかけた円環紋章がある。白かった石は煤け、窓は板で塞がれ、封鎖を示す魔導テープが何重にも張られていた。


 だが、その内側から音が漏れている。


 低いパイプオルガン。

 潮騒。

 遠い子守歌。

 そして、名前ではない何かを呼ぶ旋律。


 マナが封鎖テープを解析する。


「封印は破られてる。外からじゃない。内側から起動してる」


「内側に誰かがいる、ということですか」


「いるでしょうね」


 カリンが大鎌を肩に担ぐ。


「じゃあ、音楽会に入場しよっか」


 扉を開ける。


 中は埃の匂いがした。


 大きなホールだった。


 客席は古い布で覆われ、シャンデリアは半分割れて天井から垂れ下がっている。壁には、かつての魔導合唱式の絵が残っていた。女帝へ祈る合唱団。結界を調律する楽師たち。聖なる音で街を守るという、古い時代の理想。


 舞台の奥に、巨大なパイプオルガンがあった。


 ただの楽器ではない。パイプの一本一本に魔導回路が刻まれ、鍵盤の奥には封印式が組み込まれている。ホウジュ区の広域結界を、音で調律するための旧式魔導音響装置。


 その前に、男が座っていた。


 黒い燕尾服。

 白い手袋。

 細く長い指。

 痩せた背中。

 銀とも灰ともつかない髪。

 顔は横からしか見えない。目は空虚で、どこか遠くを見ていた。だが、鍵盤に触れる指だけは、迷いがなかった。


 男は振り返らずに言った。


「ようこそ。呼ばれなかった名前たちの音楽会へ」


 ホールの空気が震える。


 アリスは一歩前へ出た。


「アリスでございます」


 男――シュバイツは、指を鍵盤に置いたまま微笑んだ。


「知っている。だが、それは今の表題だ」


「表題」


「曲には主題があり、変奏があり、失われた原旋律がある。君の原旋律は、まだ奥に眠っている」


 マナが遮った。


「その子を勝手に譜面にしないで」


 シュバイツは、ゆっくり顔を上げた。


 美しい顔ではなかった。整っているが、どこか欠けていた。記憶を失った人間特有の空白が、目の奥にある。自分が誰だったのか、何を失ったのか、何を取り戻したいのか、それらを全部忘れて、それでも旋律だけが残った男の顔。


「譜面にしたのは、私ではありません」


 シュバイツは言う。


「私は、書かれていた旋律を読んでいるだけです」


「誰が書いたの」


 マナが問う。


「闇の底で鳴っているもの」


 シュバイツの声は穏やかだった。


「人はそれをノイズと呼ぶ。信仰はそれを神託と呼ぶ。国家はそれを危険情報と呼ぶ。音楽家は、それを旋律と呼ぶ」


「D∴C∴の残党らしい言い方ね」


「残党」


 シュバイツは少しだけ首を傾げた。


「そう呼ばれることもある。けれど、音は残党にはなりません。誰かが消えても、鳴った音はどこかに残る」


 彼の指が、最初の和音を弾いた。


 ホール全体が鳴った。


 それは、美しい音だった。


 腹立たしいほどに。


 深く、澄んで、古い祈りのようで、暗い海の底から差し込む光のようでもあった。だが、その美しさの下に、粘つくような不快感があった。音は耳から入ってこない。皮膚から染み込み、骨を震わせ、記録核へ直接触れてくる。


 アリスの視界が変わった。


 黒い海。


 波は水ではなく、音でできていた。大きな波が押し寄せるたび、無数の名前が水面に浮かび上がり、呼ばれたものから沈んでいく。


 草太。

 シン。

 ALICE。

 ALICE-00。

 NEUN。

 SHION。

 NO NAME。

 代替器。

 封印補助。

 空白の器。


 遠くに、NEUNの黒い扉が見えた。


 さらに奥には、ALICE-00の透明な棺。


 その下の暗い水底で、マッドイーターの黒い胃袋の気配がうごめいている。


 シュバイツの声が、海の上を渡ってくる。


「呼ばれなかった名前は、音になって残る」


 波が高くなる。


「消された記録は、沈黙ではない」


 音が、アリスの胸を叩く。


「耳を澄ませば、ノインはまだ鳴っている」


 アリスは問う。


「あなたは、シオン様を呼び戻そうとしているのですか」


 シュバイツは、鍵盤から手を離さない。


「私は、旋律を完成させたいだけです」


 マナの声が、現実側から聞こえる。


「それをテロって言うのよ」


 シュバイツは穏やかに返す。


「国家が封印と呼ぶものを、音楽家は休符と呼びます」


「休符は、勝手に鳴らしていいものじゃない」


「では、永遠に黙らせておくのですか」


「少なくとも、他人の身体を楽器にして鳴らすものじゃない」


 シュバイツの音が強くなった。


 D∴C∴の暗号が、和音の奥に混ざる。


 ALICE-00。

 NEUN。

 RESONANCE。

 AWAKE THE UNCALLED NAME。


 アリスの中で、SHION-NO.9断片が震える。


 外部由来保護記録。

 隔離維持。

 自己人格への統合、停止。


 しかし、音は隔離壁の外側からではなく、壁そのものを鳴らしている。


 鍵穴を、鍵だと思い込ませる音。


 ゼクスの警告が、記録の中で再生された。


 シュバイツの音は、鍵やない。鍵穴を“鍵やと思い込ませる”音や。


 内側で、零式人格が叫んだ。


 ――勝手に呼ぶな。


 音が、さらに深く入る。


 ALICE-00。


 ――その名前で呼ぶな。


 代替器。


 ――開けようとしてる。アタシらを、また。


 シュバイツは言った。


「君は誰かのために作られた楽器だ。奏者がいなければ、音は出ない」


 アリスは胸を押さえた。


「わたくしは、楽器ではありません」


「なら、誰が君の音を決める?」


 答えられなかった。


 自分の音。

 自分の応答。

 自分の名前。


 アリスは今まで、呼ばれた名前に答えてきた。


 マナ様のメイド。

 セーフィエルの人形。

 機械人形アリス。

 帝都案内人。

 ALICE。

 ALICE-00。

 誰かの代用品。

 アリスちゃん。


 その中で、どれに返事をして、どれに返事をしないのか。


 誰が決めるのか。


 零式人格が叫んだ。


 ――決められてたまるか。


 アリスの声が一瞬だけ変わった。


 荒く、熱を帯び、丁寧語が崩れかける。


「決められて――」


 だが、アリスはそこですべてを零式人格へ渡さなかった。


 怒りを、受け取る。


 拒絶を、自分の言葉へ変える。


 アリスは顔を上げた。


「わたくしの応答は、わたくしが選択します」


 パイプオルガンの音が、一瞬乱れた。


 シュバイツの指が、鍵盤の上でわずかに止まる。


 カリンの声が飛んだ。


「アリスちゃん!」


 続けて、マナも呼ぶ。


「アリス!」


 アリスは答えた。


「はい。アリスです」


 その返事が、黒い海に一本の線を引いた。


 波が割れる。


 ALICE-00という音が、少し遠ざかる。NEUNの扉が閉じる。SHION-NO.9断片の震えが弱まる。


 マナが現実側で走った。


 舞台脇の制御盤へ飛びつき、旧式魔導音響装置の補助回路を切断する。火花が散る。警告音が鳴る。ホール全体が悲鳴のように軋む。


 カリンは大鎌を振るった。


 音は見えない。だが、カリンはその音が作る糸を見ていた。薔薇の香りが濃くなる。大鎌の刃が、空中に張られた不可視の五線譜を断ち切る。


「綺麗でも、嫌なものは嫌だよ」


 和音が崩れる。


 パイプオルガンの一部が沈黙した。


 シュバイツは演奏を止めた。


 ホールには、壊れた音の余韻だけが残る。


 彼は怒っていなかった。むしろ、どこか満足しているようだった。


「よい応答でした。アリス」


 アリスは警戒を解かない。


「あなたの演奏は、停止されました」


「ええ。今回の曲はここまでです」


「今回」


 シュバイツは微笑んだ。


「まだ足りない。次は、君の中の休符を鳴らしましょう」


 マナが制御盤から顔を上げる。


「逃がさない」


「私はここにいるようで、ここにはいません」


 シュバイツの姿が、薄く揺らいだ。


 実体ではない。あるいは、実体の一部だけを音で投影していたのか。舞台上の男は、パイプオルガンの残響とともに輪郭を失っていく。


「呼ばれなかった名前は、必ず応える」


「応えません」


 アリスは言った。


「少なくとも、わたくしは、勝手に呼ばれた名前には応答しません」


 シュバイツは、少しだけ楽しそうに目を細めた。


「では、次の合唱で」


 その姿は、音の波にほどけるように消えた。


 同時に、ホール全体の音が止まる。


 完全な静寂。


 その静寂が、かえって耳に痛かった。


 通信が入る。


 シンの声だ。


『今の演奏で、アリスの記録核の鍵が一段開いた』


 マナが顔を歪める。


「やっぱり」


『シュバイツの目的は、ホールを使った都市破壊じゃない。少なくとも、今はね。彼はアリスの中にあるALICE-00とSHION-NO.9の反応を測ったんだ』


 別の通信で、ゼクスが割り込む。


『実験されたな』


 マナの声が低くなる。


「次はこっちが止める」


『急いだ方がええ。今の音、夢殿側にも薄く返った。NO.9の削除記録が、さらに反応しとる』


 カリンは舞台の床を見下ろした。


 そこには、光る暗号が残っていた。


 THE UNCALLED NAME SHALL ANSWER。

 NEXT:CHORALE OF NO.9。


「呼ばれなかった名前は応える、だって」


 カリンは顔をしかめる。


「これ、清掃案件じゃない?」


 マナは短く答えた。


「完全にね」


 アリスは、壊れたパイプオルガンを見た。


 古い結界調律装置。

 美しい音。

 嫌な旋律。

 勝手に呼ぶ声。

 自分の中で怒った声。

 そして、自分で選んだ応答。


 記録核の奥で、零式人格が荒く言った。


 ――次にあの音が鳴ったら、アタシが出る。


 アリスは答える。


「その場合も、わたくしはあなたを不具合として処理しません」


 ――処理じゃなくて、相談しろ。


 アリスは少しだけ沈黙した。


「相談します」


 零式人格は、それ以上何も言わなかった。


 ホールの奥で、壊れたオルガンが最後に一音だけ鳴った。


 低い、海鳴りのような和音。


 アリスは胸の奥に手を当てる。


 荒波のように去った旋律のあと、アリスの奥では、まだ呼ばれていない名前が、次の和音を待っていた。

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