第10話 荒波の旋律
ホウジュ区の朝は、いつも少しだけ騒がしい。
ギガステーションの巨大な屋根の下で、魔導バスが低く唸る。商店街のシャッターが次々と上がり、焼き菓子の匂いと、揚げ油の匂いと、簡易魔導炉の熱の匂いが混ざって流れてくる。空には広告竜が泳ぎ、女帝ヌルの朝の御言葉を宣伝音声に乗せて繰り返していた。
帝都エデンの中では、ホウジュ区は比較的わかりやすい街だった。
買う。食べる。働く。迷う。笑う。怒る。帰る。
死都東京の黒い結界も、裁きの門の神話も、タルタロス封印の楔も、ここでは遠い。もちろん本当に遠いわけではない。帝都エデンのどこにいても、その底には同じ封印と同じ罪が敷かれている。けれど、ホウジュ区の朝は、それを忘れさせるだけの明るさを持っていた。
駅前広場の案内塔が、いつも通りに光った。
『本日も帝都エデン交通をご利用いただき、ありがとうございます。次の魔導バスは、ミナト区方面、ツインタワー西ゲート行き――』
そこで、音が少しだけ歪んだ。
『――旧第九停留所、ノイン記念――』
通勤客の一人が足を止めた。
「え?」
案内塔はすぐに通常の音声へ戻った。
『――ツインタワー西ゲート行きです。発車まで三分です』
男は端末を見た。表示に異常はない。路線図にも、旧第九停留所などという場所は存在しない。
「寝ぼけてるな」
男はそうつぶやき、歩き出した。
交差点では、信号音が鳴っていた。
いつもの電子音ではない。
古いピアノ曲の、三音だけの短い旋律だった。
青。
赤。
青。
赤。
そのたびに、鍵盤を指で軽く叩くような音が、街の底へ染み込んでいく。
カフェの店内では、開店準備をしていた店員が首を傾げた。
「店長、BGM変えました?」
「いや? 朝はいつもの女帝礼賛ポップスだろ」
「今、子守歌みたいなの流れてますけど」
天井のスピーカーから、低いパイプオルガンの音がした。ゆっくりとした、優しい、眠りへ誘うような旋律。だが、その下に、潮騒のような音が混じっていた。
ざざん。
ざざん。
波が寄せては返す音。
ホウジュ区に海はない。
駅前の広告竜が、女帝政府の観光広告を流していた。
『帝都エデンへようこそ! 魔導科学と歴史の都――』
途中で声が変わる。
『ねんねん、ころりよ』
通行人たちが見上げた。
広告竜は、空中でゆっくり旋回しながら、同じ子守歌を歌い続ける。複数の広告竜が、別々の高さで、同じ旋律を少しずつずれた拍で歌っていた。
ずれた声は、美しくなかった。
だが、耳に残った。
商店街の清掃機械人形が、モップを持ったまま停止した。
「名称照合中」
胸部の小さなランプが青く点滅する。
「応答待機」
隣の受付機械人形も、笑顔のまま動きを止めた。
「呼称未確認」
通行人の若い女性が、急に振り返った。
「今、呼ばれた気がした」
一緒にいた友人が聞く。
「誰に?」
「わからない。でも、呼ばれた」
「名前?」
「ううん。名前じゃない。もっと昔の……」
女性はそこで言葉を失った。
記憶の奥で、もう使わなくなった幼い呼び名が揺れた。祖母だけが呼んでいた名。小学校に上がる前に消えた名。自分でも忘れていたはずの声。
街の音が、少しずつずれていく。
その異常は、遠く離れたマナの修復室にも届いた。
アリスは修復台の上にいた。
第9話で夢殿外郭研究区から戻った後、マナはアリスの外装と基礎回路の再調整を続けていた。夢殿削除記録領域への仮接続は、想定以上にアリスへ負荷をかけていた。記録核そのものは安定している。SHION-NO.9断片も外部由来保護記録として隔離されている。だが、ALICE-00関連記録へ触れた影響は、まだ胸の奥に薄いざらつきとして残っていた。
マナは工具を片手に、アリスの肩部外装を閉じていた。
「腕、動かして」
「はい」
アリスは左腕をゆっくり持ち上げた。
「痛みは?」
「物理的痛覚はありません」
「違和感は?」
「左肘部駆動に三パーセントの遅延。日常動作には支障なし。戦闘動作には補正が必要です」
「戦闘動作はしない」
「本日中に戦闘が発生する可能性は否定できません」
「否定させて」
「事実と希望は異なります」
「誰に似たの、その言い方」
マナは苦笑した。
その瞬間、修復室の端末が短く鳴った。
いつもの通知音ではなかった。
鍵盤を叩くような、短い三音。
アリスの胸の奥で、同じ音が鳴った。
「――」
アリスの身体がわずかに硬直する。
マナがすぐに気づいた。
「アリス?」
「記録核に音響性干渉を検出」
声はいつも通り丁寧だった。だが、発話までに一拍の遅れがあった。
マナは端末へ飛びつく。
「音響性? 物理音?」
「不明です。聴覚センサーだけでなく、記録核に直接振動様の干渉があります」
修復室のラジオが勝手に点いた。
古い子守歌。
次に、診断端末の警告音が同じ旋律へ変わる。魔導計測器のビープ音、通信端末の着信音、室内時計の時報。すべてが、少しずつ同じ旋律へ寄っていく。
マナの表情が変わった。
「始まった」
アリスは胸元へ手を当てた。
音は、耳で聞こえているだけではなかった。記録核の奥で、誰かが鍵盤を叩いている。黒い海の底から、低い和音が上がってくる。音の波が、アリスの中にある名前を探している。
ALICE。
ALICE-00。
NEUN。
RESONANCE。
AWAKE。
文字ではない。
だが、意味を持つ波形。
内側で、零式人格が低く言った。
――この音、嫌いだ。
アリスは問いかける。
「識別可能ですか」
――知らねぇ。でも、嫌いだ。
声は荒い。だが、いつもより鋭い。
――勝手に呼ばれてる感じがする。
「勝手に呼ばれている」
アリスは復唱した。
マナが振り向く。
「零式人格?」
「はい。強い嫌悪反応を示しています」
「内容は?」
「『この音、嫌いだ』『勝手に呼ばれている感じがする』」
マナは端末を叩いた。
「シンに繋ぐ」
通信はすぐにつながった。
画面に映ったシンは、すでに複数のモニターに囲まれていた。背後には、ホウジュ区の音響ログ、駅案内、街頭広告、警備機械人形の音声出力、店舗BGM、広告竜の放送波形がずらりと並んでいる。
『そっちにも来たか』
「ホウジュ区?」
『全域だ。音は単一の発信源から流れているわけじゃない。広告網、駅案内、店内BGM、館内放送、警備機械人形の音声機能が同時に乗っ取られている。だが、基底波形は一つ』
「発生源は」
『旧ホウジュ魔導音楽ホール。第9話で検出したD∴C∴旧式暗号と一致する。波形名にSCHWEIZが残っている』
マナは歯噛みした。
「シュバイツ」
アリスは画面を見た。
「音源を遮断すれば停止しますか」
シンは首を振る。
『厄介だね。耳を塞げば済む話じゃない。都市が耳になっている』
「都市が耳」
『ホウジュ区の音響系統そのものが共鳴器にされている。広告竜も、駅案内も、店内BGMも、警備機械人形の音声出力も、全部がシュバイツの楽器だ』
マナは別端末で旧ホウジュ魔導音楽ホールの資料を呼び出した。
閉鎖施設。
再開発予定。
帝都再編初期建造。
旧式結界調律装置あり。
地下、パイプオルガン型魔導音響装置。
撤去未完了。
「最悪」
マナが呟いた。
別の通信窓が開く。
ゼクスだった。
『朝からええ音鳴っとるやん』
「ふざけてる場合じゃない」
『ふざけてへん。音がええのと状況が最悪なのは両立するんや』
ゼクスは画面の向こうで、波形を見ながら言った。
『シュバイツの音は、鍵やない。鍵穴を“鍵やと思い込ませる”音や』
アリスは顔を上げた。
「鍵穴を、鍵と思い込ませる」
『せや。つまり、騙して開けるんや。封印式でも、記録層でも、人格領域でもな』
マナの顔が険しくなる。
「何を開けようとしてる?」
ゼクスは、アリスを画面越しに見た。
『君の中の、開けたらあかん場所やろな』
アリスの記録核が、また鳴った。
低い和音。
黒い波。
呼ばれていない名前。
マナは即座に言った。
「アリスはここに残る」
「マナ様」
「本当は連れて行きたくない」
マナの声は硬かった。
アリスは静かに答える。
「しかし、発信源はわたくしの内部断片へ干渉しています。現場確認が必要です」
「わかってる。だから腹が立つの」
マナは、工具箱を閉じた。
「連れて行く。でも条件つき。戦わない。記録核の境界維持を優先。異常が強くなったら即撤退。いい?」
「はい。境界防御を優先します」
扉が開いた。
「音楽会なら、ドレスでしょ?」
カリンが立っていた。
黒いレースの短いドレス。動きやすいブーツ。手袋。首元には小さなリボン。背中の空間収納紋には、大鎌の気配が薄く宿っている。普段より少し華やかで、けれど足運びは完全に戦闘用だった。
マナは目を細めた。
「なにその格好」
「音楽会でしょ?」
「戦闘よ」
「戦えるドレスだから大丈夫」
カリンは軽く裾をつまんで回ってみせた。
アリスは真面目に観察する。
「可動域、足捌き、武装展開位置、隠密性、威嚇効果を確認。戦闘を想定した服装として、機能性を評価します」
「ほら、アリスちゃんはわかってる」
「わかってないのよ」
マナは額を押さえた。
カリンはアリスに向かって片目をつむる。
「大丈夫。変な名前で呼ばれそうになったら、ボクがちゃんと呼ぶから」
「はい。お願いします、カリン様」
「うん。アリスちゃん」
その名前で呼ばれた瞬間、記録核の奥で鳴っていた和音が少しだけ弱まった。
アリスは、それを記録した。
外部呼称「アリスちゃん」。
音響干渉に対する安定化効果あり。
三人はホウジュ区へ出た。
異常は、すでに街全体へ広がっていた。
商店街の看板は通常通り光っている。人々も歩いている。店も開いている。表面だけ見れば、事件というほどの混乱ではない。けれど、音だけが違っていた。
駅の案内音声が、ときどき存在しない停車駅を告げる。
『次は、旧第九停留所。お降りの方は、忘れた名前をお持ちください』
信号機は、潮騒のような音を鳴らしている。
ざざん。
ざざん。
広告竜は、女帝の朝の言葉ではなく、同じ子守歌を歌っていた。
広場の清掃機械人形は十体ほど並んだまま停止し、同じ音階を繰り返している。
「ド、ミ、ラ、ミ」
「呼称未確認」
「ド、ミ、ラ、ミ」
「応答待機」
若い母親が、ベビーカーを押しながら立ち止まっていた。
「今、母に呼ばれた気がして」
隣の夫が困惑している。
「お義母さん、去年亡くなっただろ」
「でも、確かに」
別の男性は、頭を抱えていた。
「昔の名前で呼ばれた。もう誰も知らないはずなのに」
女子学生たちは笑いながらも、不安そうに耳を押さえている。
「なんかさ、誰かに呼ばれてる感じしない?」
「する。でも名前じゃないんだよね」
「じゃあ何?」
「わかんない。わかんないけど、返事しちゃいけない気がする」
アリスの胸の奥で、音が強くなった。
その音は、アリスを「アリス」とは呼ばなかった。
ALICE-00。
NEUN。
代替器。
封印補助。
空白の器。
音は言葉ではない。けれど、意味だけが押し込まれてくる。
アリスは足を止めた。
視界の端が黒く波打つ。
内側で、零式人格が荒く叫んだ。
――その名前で呼ぶな。
音は続く。
ALICE-00。
――勝手に呼ぶな。
NEUN。
――開けようとしてる。
アリスの膝がわずかに揺れた。
「アリスちゃん」
カリンの声がした。
はっきりと、外から。
「アリスちゃん、聞こえてる?」
アリスは顔を上げた。
「はい。アリスです」
カリンは頷いた。
「うん。今の返事、大事」
マナもアリスの横に立つ。
「呼ばれた名前に、応答しなきゃいけないわけじゃない」
アリスはマナを見る。
「呼ばれた名前に、応答しなければならないのでしょうか」
「呼ばれても、返事しなくていい名前はある」
マナの声は、シュバイツの音より近かった。
「誰かが勝手に呼んだ名前に、あなたが返事する義務はない」
アリスは、その言葉を記録した。
返事しなくていい名前がある。
ホウジュ区の路地を抜け、旧ホウジュ魔導音楽ホールへ向かう。
街の音は、近づくほど濃くなった。音が空気に混ざっているのではない。音そのものが空気の密度を変えている。看板の光が波打ち、窓ガラスが低く震え、石畳に刻まれた古い結界線が淡く浮かび上がっていた。
路地の途中で、三体の機械人形が立っていた。
作業用の簡易機械人形。塗装は剥げ、目の光は濁っている。本来なら近くの店舗で搬入作業をしている機体だろう。その胸部スピーカーから、同じ和音が流れていた。
「ALICE-00」
アリスの記録核が軋む。
「起動せよ」
カリンが一歩前に出た。
「どいてくれる?」
「封印負荷を受け入れよ」
機械人形の腕が持ち上がる。指先に魔導火花。音の糸のようなものが、アリスへ伸びる。
カリンの周囲に薔薇の香りが広がった。
「音楽会の前に、前座が多いねぇ」
空間が裂けるようにして、大鎌が現れる。
カリンは踏み込んだ。ドレスの裾が翻る。大鎌の刃は機械人形そのものを切らず、その身体に絡みつく音の糸だけを斬った。
音が弾ける。
機械人形たちの動きが止まる。
「名称照合中……」
カリンは二体目、三体目の糸も切る。動きは軽い。黒いドレスで踊るように、刃が弧を描く。
「綺麗でも、嫌なものは嫌だよ」
最後の機械人形が、アリスへ顔を向けた。
「ALICE-00」
その瞬間、アリスの口が勝手に動きかけた。
内側から、零式人格が押し上げてくる。
「その名前で――」
声が荒くなった。
マナが気づく。
「アリス!」
アリスは、自分で止めた。
怒りを押し殺すのではない。怒りを言葉へ変える。
「……呼ばないでください」
機械人形のスピーカーがノイズを吐いた。
カリンが最後の音の糸を断つ。
機械人形は、その場に崩れるように膝をついた。破壊されてはいない。音から切り離されただけだった。
マナがアリスを見た。
「今の」
「零式人格の発話が表層に出かけました」
「でも、止めた」
「はい。怒りを、自分の言葉に変換しました」
カリンが微笑んだ。
「いいじゃん。ちゃんと嫌って言えた」
アリスは胸元に手を当てた。
「はい。嫌でした」
零式人格が内側で小さく言う。
――最初からそう言え。
アリスは答える。
学習中です。
――遅い。
ですが、進行中です。
零式人格は、それ以上言わなかった。
旧ホウジュ魔導音楽ホールは、再開発区域の奥にあった。
かつては華やかな建物だったのだろう。外壁には女帝時代初期の装飾が残り、入口の上には壊れかけた円環紋章がある。白かった石は煤け、窓は板で塞がれ、封鎖を示す魔導テープが何重にも張られていた。
だが、その内側から音が漏れている。
低いパイプオルガン。
潮騒。
遠い子守歌。
そして、名前ではない何かを呼ぶ旋律。
マナが封鎖テープを解析する。
「封印は破られてる。外からじゃない。内側から起動してる」
「内側に誰かがいる、ということですか」
「いるでしょうね」
カリンが大鎌を肩に担ぐ。
「じゃあ、音楽会に入場しよっか」
扉を開ける。
中は埃の匂いがした。
大きなホールだった。
客席は古い布で覆われ、シャンデリアは半分割れて天井から垂れ下がっている。壁には、かつての魔導合唱式の絵が残っていた。女帝へ祈る合唱団。結界を調律する楽師たち。聖なる音で街を守るという、古い時代の理想。
舞台の奥に、巨大なパイプオルガンがあった。
ただの楽器ではない。パイプの一本一本に魔導回路が刻まれ、鍵盤の奥には封印式が組み込まれている。ホウジュ区の広域結界を、音で調律するための旧式魔導音響装置。
その前に、男が座っていた。
黒い燕尾服。
白い手袋。
細く長い指。
痩せた背中。
銀とも灰ともつかない髪。
顔は横からしか見えない。目は空虚で、どこか遠くを見ていた。だが、鍵盤に触れる指だけは、迷いがなかった。
男は振り返らずに言った。
「ようこそ。呼ばれなかった名前たちの音楽会へ」
ホールの空気が震える。
アリスは一歩前へ出た。
「アリスでございます」
男――シュバイツは、指を鍵盤に置いたまま微笑んだ。
「知っている。だが、それは今の表題だ」
「表題」
「曲には主題があり、変奏があり、失われた原旋律がある。君の原旋律は、まだ奥に眠っている」
マナが遮った。
「その子を勝手に譜面にしないで」
シュバイツは、ゆっくり顔を上げた。
美しい顔ではなかった。整っているが、どこか欠けていた。記憶を失った人間特有の空白が、目の奥にある。自分が誰だったのか、何を失ったのか、何を取り戻したいのか、それらを全部忘れて、それでも旋律だけが残った男の顔。
「譜面にしたのは、私ではありません」
シュバイツは言う。
「私は、書かれていた旋律を読んでいるだけです」
「誰が書いたの」
マナが問う。
「闇の底で鳴っているもの」
シュバイツの声は穏やかだった。
「人はそれをノイズと呼ぶ。信仰はそれを神託と呼ぶ。国家はそれを危険情報と呼ぶ。音楽家は、それを旋律と呼ぶ」
「D∴C∴の残党らしい言い方ね」
「残党」
シュバイツは少しだけ首を傾げた。
「そう呼ばれることもある。けれど、音は残党にはなりません。誰かが消えても、鳴った音はどこかに残る」
彼の指が、最初の和音を弾いた。
ホール全体が鳴った。
それは、美しい音だった。
腹立たしいほどに。
深く、澄んで、古い祈りのようで、暗い海の底から差し込む光のようでもあった。だが、その美しさの下に、粘つくような不快感があった。音は耳から入ってこない。皮膚から染み込み、骨を震わせ、記録核へ直接触れてくる。
アリスの視界が変わった。
黒い海。
波は水ではなく、音でできていた。大きな波が押し寄せるたび、無数の名前が水面に浮かび上がり、呼ばれたものから沈んでいく。
草太。
シン。
ALICE。
ALICE-00。
NEUN。
SHION。
NO NAME。
代替器。
封印補助。
空白の器。
遠くに、NEUNの黒い扉が見えた。
さらに奥には、ALICE-00の透明な棺。
その下の暗い水底で、マッドイーターの黒い胃袋の気配がうごめいている。
シュバイツの声が、海の上を渡ってくる。
「呼ばれなかった名前は、音になって残る」
波が高くなる。
「消された記録は、沈黙ではない」
音が、アリスの胸を叩く。
「耳を澄ませば、ノインはまだ鳴っている」
アリスは問う。
「あなたは、シオン様を呼び戻そうとしているのですか」
シュバイツは、鍵盤から手を離さない。
「私は、旋律を完成させたいだけです」
マナの声が、現実側から聞こえる。
「それをテロって言うのよ」
シュバイツは穏やかに返す。
「国家が封印と呼ぶものを、音楽家は休符と呼びます」
「休符は、勝手に鳴らしていいものじゃない」
「では、永遠に黙らせておくのですか」
「少なくとも、他人の身体を楽器にして鳴らすものじゃない」
シュバイツの音が強くなった。
D∴C∴の暗号が、和音の奥に混ざる。
ALICE-00。
NEUN。
RESONANCE。
AWAKE THE UNCALLED NAME。
アリスの中で、SHION-NO.9断片が震える。
外部由来保護記録。
隔離維持。
自己人格への統合、停止。
しかし、音は隔離壁の外側からではなく、壁そのものを鳴らしている。
鍵穴を、鍵だと思い込ませる音。
ゼクスの警告が、記録の中で再生された。
シュバイツの音は、鍵やない。鍵穴を“鍵やと思い込ませる”音や。
内側で、零式人格が叫んだ。
――勝手に呼ぶな。
音が、さらに深く入る。
ALICE-00。
――その名前で呼ぶな。
代替器。
――開けようとしてる。アタシらを、また。
シュバイツは言った。
「君は誰かのために作られた楽器だ。奏者がいなければ、音は出ない」
アリスは胸を押さえた。
「わたくしは、楽器ではありません」
「なら、誰が君の音を決める?」
答えられなかった。
自分の音。
自分の応答。
自分の名前。
アリスは今まで、呼ばれた名前に答えてきた。
マナ様のメイド。
セーフィエルの人形。
機械人形アリス。
帝都案内人。
ALICE。
ALICE-00。
誰かの代用品。
アリスちゃん。
その中で、どれに返事をして、どれに返事をしないのか。
誰が決めるのか。
零式人格が叫んだ。
――決められてたまるか。
アリスの声が一瞬だけ変わった。
荒く、熱を帯び、丁寧語が崩れかける。
「決められて――」
だが、アリスはそこですべてを零式人格へ渡さなかった。
怒りを、受け取る。
拒絶を、自分の言葉へ変える。
アリスは顔を上げた。
「わたくしの応答は、わたくしが選択します」
パイプオルガンの音が、一瞬乱れた。
シュバイツの指が、鍵盤の上でわずかに止まる。
カリンの声が飛んだ。
「アリスちゃん!」
続けて、マナも呼ぶ。
「アリス!」
アリスは答えた。
「はい。アリスです」
その返事が、黒い海に一本の線を引いた。
波が割れる。
ALICE-00という音が、少し遠ざかる。NEUNの扉が閉じる。SHION-NO.9断片の震えが弱まる。
マナが現実側で走った。
舞台脇の制御盤へ飛びつき、旧式魔導音響装置の補助回路を切断する。火花が散る。警告音が鳴る。ホール全体が悲鳴のように軋む。
カリンは大鎌を振るった。
音は見えない。だが、カリンはその音が作る糸を見ていた。薔薇の香りが濃くなる。大鎌の刃が、空中に張られた不可視の五線譜を断ち切る。
「綺麗でも、嫌なものは嫌だよ」
和音が崩れる。
パイプオルガンの一部が沈黙した。
シュバイツは演奏を止めた。
ホールには、壊れた音の余韻だけが残る。
彼は怒っていなかった。むしろ、どこか満足しているようだった。
「よい応答でした。アリス」
アリスは警戒を解かない。
「あなたの演奏は、停止されました」
「ええ。今回の曲はここまでです」
「今回」
シュバイツは微笑んだ。
「まだ足りない。次は、君の中の休符を鳴らしましょう」
マナが制御盤から顔を上げる。
「逃がさない」
「私はここにいるようで、ここにはいません」
シュバイツの姿が、薄く揺らいだ。
実体ではない。あるいは、実体の一部だけを音で投影していたのか。舞台上の男は、パイプオルガンの残響とともに輪郭を失っていく。
「呼ばれなかった名前は、必ず応える」
「応えません」
アリスは言った。
「少なくとも、わたくしは、勝手に呼ばれた名前には応答しません」
シュバイツは、少しだけ楽しそうに目を細めた。
「では、次の合唱で」
その姿は、音の波にほどけるように消えた。
同時に、ホール全体の音が止まる。
完全な静寂。
その静寂が、かえって耳に痛かった。
通信が入る。
シンの声だ。
『今の演奏で、アリスの記録核の鍵が一段開いた』
マナが顔を歪める。
「やっぱり」
『シュバイツの目的は、ホールを使った都市破壊じゃない。少なくとも、今はね。彼はアリスの中にあるALICE-00とSHION-NO.9の反応を測ったんだ』
別の通信で、ゼクスが割り込む。
『実験されたな』
マナの声が低くなる。
「次はこっちが止める」
『急いだ方がええ。今の音、夢殿側にも薄く返った。NO.9の削除記録が、さらに反応しとる』
カリンは舞台の床を見下ろした。
そこには、光る暗号が残っていた。
THE UNCALLED NAME SHALL ANSWER。
NEXT:CHORALE OF NO.9。
「呼ばれなかった名前は応える、だって」
カリンは顔をしかめる。
「これ、清掃案件じゃない?」
マナは短く答えた。
「完全にね」
アリスは、壊れたパイプオルガンを見た。
古い結界調律装置。
美しい音。
嫌な旋律。
勝手に呼ぶ声。
自分の中で怒った声。
そして、自分で選んだ応答。
記録核の奥で、零式人格が荒く言った。
――次にあの音が鳴ったら、アタシが出る。
アリスは答える。
「その場合も、わたくしはあなたを不具合として処理しません」
――処理じゃなくて、相談しろ。
アリスは少しだけ沈黙した。
「相談します」
零式人格は、それ以上何も言わなかった。
ホールの奥で、壊れたオルガンが最後に一音だけ鳴った。
低い、海鳴りのような和音。
アリスは胸の奥に手を当てる。
荒波のように去った旋律のあと、アリスの奥では、まだ呼ばれていない名前が、次の和音を待っていた。




