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第11話 呼ばれなかった名前

 ホウジュ区の音は、一度、戻ったはずだった。


 旧ホウジュ魔導音楽ホールでシュバイツの演奏を止めたあと、街にはいつもの騒がしさが戻っていた。駅前の案内音声は正しい停留所を告げ、広告竜は女帝政府の観光案内を流し、信号機はいつもの電子音を鳴らしていた。店内BGMも、警備機械人形の音声も、通信端末の通知音も、少なくとも表面上は正常だった。


 だが、ホウジュ区に暮らす者たちは、誰もがどこかで気づいていた。


 音が戻ったのではない。


 音が、息を潜めただけだ。


 商店街のパン屋で、オーブンの焼き上がりを知らせるベルが鳴る。


 りん、と一音。


 隣のカフェで、注文端末の通知音が鳴る。


 りん、と一音。


 駅前広場で、魔導バスの到着を知らせるチャイムが鳴る。


 りん、と一音。


 それらは別々の機械から鳴った音のはずだった。場所も、目的も、音色も違う。けれど、その一音だけが、奇妙に揃っていた。


 最初に気づいたのは、駅前で立っていた少女だった。


「ねえ、今、誰か合図した?」


 隣の友人が笑った。


「合図って?」


「なんか、みんなで一緒に鳴ったみたいな」


「気のせいじゃない?」


 少女は笑い返そうとして、ふと背後を振り返った。


 誰もいない。


 けれど、呼ばれた気がした。


 名前ではない。声でもない。ただ、胸の奥にある、もう自分でも使っていない呼び名が、遠くから手招きされたような感覚。


 駅の案内音声が流れる。


『まもなく、ホウジュ中央、ホウジュ中央です』


 その直後、音声が重なった。


『呼称照合中』


 駅前の受付機械人形が、笑顔のまま動きを止める。


『未登録名に応答』


 清掃機械人形が、モップを持ったまま一歩踏み出した。


『自己定義、一時停止』


 人々が振り返る。


 街頭スピーカー、店内BGM、広告竜、家庭用端末のアラーム、学校のチャイム、病院の心拍モニター、工事現場の警告音、すべてが同じ拍を刻み始めた。


 りん。


 りん。


 りん。


 それは子守歌ではなかった。


 合唱だった。


 言葉はない。けれど、聞いた者の中に「呼ばれている」という感覚だけを残す。古い名前。忘れたあだ名。死者に呼ばれた時の声。夢の中でしか呼ばれなかった名前。生まれる前につけられたかもしれない名。


 ホウジュ区全体が、呼ばれる街になっていく。


 マナの修復室でも、その音は鳴った。


 アリスは修復台の上で再検査を受けていた。第10話の演奏で、記録核の鍵が一段開いたことは確認されている。だが、何が開いたのか、どこへつながったのかは、マナにもまだ特定できていなかった。


 胸部外装は閉じられている。だが、記録核周辺にはまだ薄い封止帯が残っている。基礎回路は安定。外装損傷は仮修復済み。戦闘機能は制限状態。零式人格領域は活動値が高いまま落ち着かない。


 マナは端末の波形を睨んでいた。


「嫌な残り方してるわね……」


「異常の残留を確認しますか」


「確認してる。だから嫌なの」


 アリスが首を傾けた時、通信端末が鳴った。


 りん。


 いつもの着信音ではない。


 アリスの記録核の奥で、同じ音が鳴る。


 ALICE-00。

 NEUN。

 SHION。

 UNUSED NAME。

 UNCALLED NAME。


 今度の音は、はっきりと呼んでいた。


 アリスの視界が一瞬だけ揺れる。修復室の壁が遠ざかり、黒い海の波音が重なる。


 マナが即座にアリスの肩を掴んだ。


「アリス、返事しなくていい」


 アリスは目を開く。


「はい。呼ばれても、返事しなくていい名前があります」


 カリンが部屋の隅から歩いてきた。


 第10話の時と同じく黒いドレス姿だったが、今回は裾に薄い魔導防護布が縫い込まれている。指には黒い手袋。背には大鎌の気配。音楽会というより、葬送の舞台へ向かう衣装に見えた。


「返事するなら、こっちね。アリスちゃん」


 アリスはカリンを見た。


「はい。アリスです」


 その返答で、胸の奥の音が一瞬弱まる。


 通信画面が開いた。


 シンが映る。背景にはホウジュ区全域の音響ログが流れている。前回よりもはるかに複雑だった。駅、商店街、学校、病院、家庭端末、警備網。街の音という音が、同じ拍へ組み込まれている。


『音響異常、再発。今度は一方向の演奏じゃない。ホウジュ区全体が合唱にされている』


 別窓でゼクスの通信も割り込む。


『第10話は前奏。今回は本番やな』


「嫌な言い方しないで」


 マナが即座に返す。


『せやけど事実や。今回はシュバイツが街全体を鳴らしとる。しかも、前より深い。音が記録層の表面やなくて、未呼称領域へ届こうとしとる』


「未呼称領域」


 アリスが復唱する。


 胸の奥で、零式人格が低く言った。


 ――来るぞ。


「零式人格が反応しています」


「何て?」


 マナが聞く。


 アリスは内側の声をそのまま伝える。


「『今度は外からじゃない。内側を鳴らしに来る』」


 修復室の空気が冷えた。


 シンがモニターに地下構造図を表示する。


『発生源は前回のホール舞台じゃない。旧ホウジュ魔導音楽ホール地下。帝都再編初期に造られた広域合唱式調律炉だ』


 マナが顔をしかめる。


「まだそんなもの残ってたの」


『本来の用途は、ホウジュ区の広域結界を音で調整すること。災害時の避難誘導音声の一括制御。女帝礼賛式典時の聖歌拡散。機械人形の行動同期補助。かなり古い設備だけど、出力は大きい』


 ゼクスが続ける。


『D∴C∴はそれを改造して、都市記録層へ合唱を流し込んどる。街を楽器にしとるわけや』


 マナが低く呟く。


「街を楽器にしてる」


 シンが訂正した。


『正確には、街を合唱団にしている』


「どっちにしても迷惑だねぇ」


 カリンが言う。


 アリスは、少しだけ真面目に補足した。


「合唱とは、複数の声が同時に響く音楽形式です」


 カリンはアリスを見た。


「アリスちゃん、今は音楽用語解説じゃなくて怒っていいところだよ」


 アリスは少し考えた。


「怒っています」


 カリンは微笑んだ。


「よろしい」


 旧ホウジュ魔導音楽ホールは、前回の戦闘で地上のパイプオルガン型装置を一部破壊されていた。だが、地上装置は演奏台にすぎなかった。地下へ続く古い保守通路から、低い合唱が漏れている。


 マナ、アリス、カリンは封鎖線を越え、ホールの地下へ入った。


 階段を下りるたび、空気が湿っていく。壁には古い結界管が走り、ところどころから青白い魔導水が漏れていた。音を運ぶための管が水路と絡み合い、地下全体が巨大な楽器の内部のように震えている。


 地上の廃ホールが忘れられた劇場だとすれば、地下は眠ったままの心臓だった。


 広い空間に出る。


 壁一面に古いパイプが並んでいる。天井には音響結界用の円環。床にはD∴C∴の暗号譜面が光っていた。中央には、巨大な円形合唱炉。何百本もの管がそこへ集まり、まるでパイプオルガンの根のように絡み合っている。


 床の暗号が浮かび上がる。


 CHORALE OF NO.9。


「趣味悪いねぇ」


 カリンが呟く。


 合唱炉の周囲には、音に操られた機械人形が並んでいた。作業用、警備用、案内用、清掃用。どれも目の光が濁り、胸部スピーカーから同じ拍を刻んでいる。さらに、黒い外套を着たD∴C∴残党らしき人影も数人いた。彼らの顔は虚ろで、口だけが合唱に合わせて動いている。


「呼称照合中」


「未登録名に応答」


「休符解除」


「ノイン」


 アリスの胸が痛む。


 物理的な痛みではない。記録核の隔離壁が、音で撫でられている。


 マナが制御盤へ向かう。


「私は合唱炉を見る。カリン、前」


「了解」


 カリンは大鎌を出した。


 黒いドレスの裾が水路の光を受けて揺れる。大鎌の刃が広がり、地下の青白い光を反射する。


「人形も、人間も、君の合唱団じゃないよ」


 彼女が踏み込む。


 大鎌は機械人形の腕を切らない。喉を切らない。体を壊さない。音の鎖だけを斬る。目に見えない五線譜のような束が、機械人形の背や胸元に絡みついている。それを刃で断つたび、機械人形の目の光が通常色へ戻り、その場に膝をついた。


 D∴C∴残党の一人が、合唱しながらアリスへ手を伸ばす。


「ALICE-00」


 アリスは反射的に足を動かそうとした。


 マナが振り返らずに言う。


「今のあなたの仕事は、壊すことじゃない。応答を選ぶこと」


「応答を選ぶ」


 内側で零式人格が言った。


 ――違う。嫌なものに嫌って言うことだ。


「同義ではありませんが、関連性があります」


 ――その言い方をやめろ。


 アリスは、胸元へ手を当てた。


「境界防御を優先します」


 合唱炉の中央に、男が立っていた。


 シュバイツ。


 今回は幻影ではない。実体がある。だが、身体の輪郭の一部が音に揺らいでいる。黒い燕尾服。白い手袋。長い指。その手には指揮棒。背後では、無数のパイプと機械人形の音声装置が合唱していた。


「前奏は終わりました」


 シュバイツは静かに言った。


「ここからが、呼ばれなかった名前の合唱です」


 マナが制御盤越しに睨む。


「前回で懲りなかったの?」


「未完成の曲を途中でやめる音楽家はいません」


「迷惑な職業倫理だねぇ」


 カリンが、音の鎖を切りながら言う。


 アリスはシュバイツを見た。


「あなたの演奏は、多数の市民および機械人形に異常を発生させています」


「呼ばれたのです。彼らもまた、自分が忘れた名前に」


「本人の同意が確認されていません」


 シュバイツは微笑んだ。


「名前は、同意を待ちません。生まれた時、人は勝手に名づけられる」


 その言葉に、アリスは一瞬だけ処理を止めた。


 確かに、名は多くの場合、与えられる。本人の同意より先に。生まれる前に。作られる前に。登録される前に。必要とされる役割と共に。


 アリス。

 ALICE。

 ALICE-00。

 封印補助人形。

 代替器。


 けれど、アリスは第10話で学んだ。


「それでも、応答するかは選択できます」


 シュバイツの目が、わずかに細くなった。


 興味。

 美しさを見つけた音楽家の目。

 あるいは、実験対象が想定外の反応を返した時の目。


「では、聴かせてください」


 シュバイツが指揮棒を上げた。


「あなたの選択を」


 合唱が始まった。


 ホウジュ区全域の音が重なる。駅案内、信号音、店内BGM、広告竜、通信端末、病院の心拍モニター、学校のチャイム、家庭用アラーム、警備機械人形の音声。すべてが合唱炉へ流れ込み、合唱炉から都市記録層へ押し出される。


 地下空間が震えた。


 アリスの視界が黒く染まる。


 音の海。


 第10話で見た海より、はるかに荒れていた。


 黒い波が天まで立ち上がる。波の上に、無数の譜面が浮かんでいる。譜面には名前が書かれている。呼ばれた名前からインクがにじみ、波へ沈んでいく。


 遠くには、NEUNの黒い扉。

 その横に、ALICE-00の透明な棺。

 さらに奥に、シオンの声が眠る暗い部屋。

 水底では、マッドイーターの黒い胃袋の残響が蠢いている。

 空にはD∴C∴の合唱譜が広がり、星座のように歪んだ暗号を描いている。


 シュバイツの声が、海上を渡る。


「呼ばれなかった名前よ」


 波が高くなる。


「閉じられた扉よ」


 NEUNの扉が軋む。


「休符として沈められた声よ」


 ALICE-00の棺が光る。


「今、応えよ」


 音が、アリスの内部へ入ってくる。


 ALICE-00。

 NEUN。

 SHION。

 ZERO。

 NO NAME。


 零式人格が表層へ押し上がろうとした。


 ――開けさせるな。


 アリスの喉が熱くなる。口調が変わりかける。視界の端が白く割れる。


 ――アタシが出る。


 アリスは内側で答えた。


「出る前に、相談してください」


 ――今それをやってる暇があるか!


「あります。わたくしは、あなたを一方的に処理しないと決めました。したがって、あなたもわたくしを一方的に乗っ取らないでください」


 零式人格が、一瞬黙った。


 荒波の中で、白い影が立っている。


 アリスと同じ顔。鋭い目。裂けた白い試験服。怒りに震える手。


 ――面倒くせぇ。


「同意形成は、手間がかかります」


 ――言い方は腹立つけど、わかった。


 音の海で、アリスは零式人格へ向き直る。


「あなたは、何を嫌だと感じていますか」


 零式人格は、波の向こうにある合唱譜を睨んだ。


 ――あの音だ。


 シュバイツの合唱が、ALICE-00の棺を鳴らしている。


 ――あの音は、開けていいか聞いてない。


 NEUNの扉へ、勝手に鍵を差し込むような和音。


 ――嫌だって言う権利まで、旋律にするな。


 零式人格の声は震えていた。


 怒りで。

 恐怖で。

 そして、長い間、言葉にならなかった拒絶で。


 ――アタシは、おまえを壊したいんじゃない。使わせたくないだけだ。


 アリスはその声を聞いた。


 零式人格は破壊衝動ではない。


 誰かの器にされることへの拒絶。勝手に名づけられ、勝手に使われることへの怒り。アリスがまだうまく言葉にできない「嫌だ」を、先に叫んでいた声。


 アリスは言った。


「あなたは、わたくしの敵ではありません」


 零式人格がこちらを見る。


「あなたは、わたくしの中にある拒絶です」


 黒い海の波が、少しだけ止まる。


「わたくしは、その拒絶を聞きます」


 零式人格は口元を歪めた。


 ――聞くだけじゃ足りねぇ。使え。


「はい。あなたの拒絶を、わたくしの応答に使用します」


 ――その言い方ほんと嫌いだ。


「ですが、許可しますか」


 沈黙。


 荒波が近づいてくる。


 遠くで、シュバイツが指揮棒を振る。


 零式人格は、舌打ちした。


 ――……許可する。


 その瞬間、アリスの記録核の奥で、二つの声が重なった。


 完全に一つになったわけではない。統合でもない。主導権はアリスにある。ただ、その声に、零式人格の荒さと拒絶の熱が混ざる。


 アリスは音の海へ向かって宣言した。


「わたくしは、呼ばれなかった名前を消しません」


 合唱が揺れる。


「ですが、あなたの合唱に応答させません」


 NEUNの扉を叩く音が止まる。


「嫌だという声を、あなたの旋律にしないでください」


 現実側で、アリスの記録核から逆位相の音が発生した。


 それは美しい音ではなかった。


 拒絶の音だった。


 合唱炉の音が乱れ始める。


 マナは制御盤に両手を置き、歯を食いしばった。


「ゼクス、通常停止は?」


『無理や。合唱炉に、停止命令を“次の小節”やと思い込ませられとる』


「じゃあ、どうやって止めるの」


『曲を終わらせる。終止形を作るんや。アリスの逆位相音に合わせて、外側から閉じる』


 シンの声が割り込む。


『ホウジュ区の音響網、五分だけこちらで奪い返す。そこにマナの終止信号を流せば、合唱は切れる』


「五分?」


『三分だと足りない。六分だと僕の名前がまた欠ける』


「五分でやる」


 マナは端末へ手を走らせる。


 カリンは合唱炉周辺で、音に操られた機械人形とD∴C∴残党を相手にしていた。


 大鎌の刃が舞う。


 人形の腕を切らない。人間の足を切らない。喉を切らない。音の鎖だけを切る。街の合唱に縛りつけられた声だけを断つ。


「人形も、人間も、君の合唱団じゃないよ」


 シュバイツは指揮を続けながら答える。


「彼らは響いているだけです」


「じゃあ、響かせてる手を切るね」


 カリンが踏み込む。


 大鎌が、シュバイツへ伸びる音の鎖を裂いた。


 音の海で、アリスはシュバイツと向き合っていた。


 シュバイツは、拒絶の音に興味を示している。


「拒絶もまた旋律です」


 彼の声は穏やかだった。


「嫌だ、という声も音になる。ならば、それも合唱に入れればよい」


「いいえ」


 アリスは答えた。


「嫌だという声は、拒絶のためにあります。あなたの曲を完成させるためではありません」


 シュバイツの指揮が、ほんのわずか乱れる。


「では、呼ばれなかった名前は永遠に沈黙するのですか」


「沈黙を選ぶ権利もあります」


 その言葉で、シュバイツの表情が初めて変わった。


 彼にとって、呼ばれないことは悲劇だった。失われた名を鳴らすことこそが救済だった。沈黙は奪われた状態であり、呼ぶことは取り戻すことだった。


 だから、沈黙を選ぶ権利という言葉は、彼の美学の外にあった。


「名前は、呼ばれるためにある」


「呼ぶ相手を選ぶためにもあります」


 黒い海の上で、二人の声がぶつかった。


 その時、現実側でシンが叫ぶ。


『音響網、奪取。今だ』


 マナが終止信号を流す。


 ゼクスが封印式補正を重ねる。


 アリスの逆位相音が、合唱の内側から拒絶を鳴らす。


 カリンが最後の音の鎖を切る。


 ホウジュ区全域から、音が消えた。


 一秒。


 二秒。


 三秒。


 完全な静寂。


 駅案内も、信号音も、広告竜も、店内BGMも、心拍モニターも、学校のチャイムも、何も鳴らない。人々は息を呑んだ。機械人形は動きを止めたまま、青いランプを瞬かせた。


 そして、音が戻った。


『次の魔導バスは、ミナト区方面――』


 信号が通常音を鳴らす。


 広告竜が慌てたように女帝政府の観光広告を再開する。


 店員たちの声。通行人のざわめき。機械人形の再起動音。誰かが泣き、誰かが笑い、誰かが「今の何?」と呟く。


 ホウジュ区が現実へ戻った。


 地下合唱炉では、シュバイツの合唱が崩れていた。


 彼は膝をつく。


 指揮棒が床に落ちる。


 だが、彼は微笑んでいた。


「美しい終止形でした」


「ふざけないで」


 マナが言った。


 シュバイツは首を横に振る。


「いいえ。本当に。拒絶を音にした者を、私は初めて聞いた」


 アリスは、黒い海から戻りながら言う。


「あなたの儀式は終了しました」


「ええ」


 シュバイツは静かに言った。


「この儀式は」


 シンの声が通信に割り込んだ。


『待て。今の合唱炉停止ログ、おかしい』


 マナが振り返る。


「何」


『儀式本体は止まった。でも、別の通信が通っている』


 ゼクスの声が低くなる。


『どこへ?』


『都市記録古層。いや、違う。誰かの個人封印領域へ送られている』


「何を送ったの」


 マナの声が硬い。


 シンは一拍置いた。


『アリスの反応』


 ゼクスが呟く。


『……実験データか』


『それだけじゃない。鍵だ』


「鍵?」


『アリスの記録核のどこを鳴らせば、ALICE-00とSHION-NO.9が反応するのか。その応答情報が送信された』


 ゼクスの声が低くなった。


『最悪や。シュバイツは儀式を成功させる必要がなかった。アリスの鍵穴の形を測れれば、それでよかったんや』


 アリスは、自分の胸元に手を当てた。


「わたくしは、開かれたのですか」


 マナは答えられなかった。


 答えたのは、シュバイツだった。


「いいえ。まだです」


 彼の声は、消えかけた音のように細い。


「扉は鳴りました。あとは、鍵を持つ者が来るだけです」


 カリンが大鎌を構え直す。


「誰のこと」


 シュバイツは微笑んだ。


「私は奏者。扉を開けるのは、鍵を持つ者」


 そのまま、彼は崩れるように倒れた。


 マナが駆け寄り、状態を確認する。


「生きてる。意識はない」


 カリンが警戒を解かずに言う。


「拘束する?」


「する。情報源として残す」


 シュバイツの唇が、かすかに動いた。


 アリスは耳を澄ませた。


「私は……失った名前を思い出したかった」


 途切れ途切れの声。


「けれど、鳴ったのは、私の名ではなかった」


 彼の目は、もうアリスを見ていない。どこか遠く、彼自身が失ったものの方を見ている。


「……あの方の曲は、いつもそうだ」


 アリスは問う。


「あの方、とは誰ですか」


 シュバイツは答えなかった。


 意識が落ちる。


 地下合唱炉に、壊れた音の残響だけが残った。


 事件後、アリスは一瞬だけ内側へ沈んだ。


 音の海は静かになっていた。


 黒い波は引き、遠くにNEUNの扉とALICE-00の透明な棺が見える。どちらもまだ閉じている。けれど、完全に眠っているわけではない。先ほどの合唱で、確かに鳴った。


 零式人格が立っていた。


 白い試験服。鋭い目。けれど、いつもほど敵意はない。


 ――相談って、面倒だな。


「はい。ですが、有効でした」


 ――アタシが勝手に出た方が早い。


「その場合、わたくしの同意が存在しません」


 零式人格は黙った。


 そして、小さく言った。


 ――……そうだな。


 アリスは続ける。


「あなたの拒絶は、わたくしを守りました」


 ――綺麗に言うな。


「では、あなたは、わたくしを使わせないようにしました」


 零式人格は少しだけ笑った。


 ――それでいい。


「次回も、相談します」


 ――次がある前提かよ。


「高確率であります」


 ――嫌な予測だな。


「同意します」


 二人の間に、短い沈黙が落ちた。


 敵ではない。


 まだ一つでもない。


 けれど、声は届く。


 アリスは目を開いた。


 地下合唱炉の現実が戻る。マナが近くにいる。カリンが音の残りを警戒している。シンとゼクスの通信はまだつながっている。シュバイツは拘束され、D∴C∴残党は無力化されている。


 けれど、勝利ではなかった。


 どこかの暗い部屋で、別の画面が点灯していた。


 そこは、ホウジュ区ではない。


 夢殿でもない。


 都市記録古層の奥か、D∴C∴残党の隠れ家か、あるいは扉と扉の隙間にある場所。


 机の上に、古い鍵が置かれている。


 壁には、歪んだD∴C∴の紋章。


 モニターには、アリスの記録核反応が表示されていた。


 ALICE-00:応答確認。

 SHION-NO.9:共鳴確認。

 ZERO-LAYER:拒絶反応確認。

 KEY SHAPE:PARTIAL ACQUIRED。


 男の声がした。


「扉は鳴った」


 別の影が問う。


「開いたのか」


「いいえ。まだです」


 男は古い鍵を手に取る。


「ですが、鍵穴の形はわかりました」


 鍵が、暗い部屋の中で鈍く光る。


「あとは、鍵を迎えに行くだけです」


 短い沈黙。


 それから、男は静かに言った。


「アリスを迎えに行きましょう」


 呼ばれなかった名前の合唱は止まった。


 けれど、その余韻は、アリスを奪うための扉を、静かに震わせていた。

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