第12話 氷の中のアリス
マナの修復室は、いつもより静かだった。
機械が止まっているわけではない。むしろ逆だった。壁面に並ぶ計測器は青白い光を点滅させ、天井から吊られた魔導診断針は規則的に震え、床には何重もの封印円が描き込まれている。空調音も、記録核冷却装置の駆動音も、外部通信の待機音もある。
けれど、音がすべて管理されていた。
余計な音がなかった。
前回の事件以来、マナは修復室の中から「偶然鳴る音」をすべて排除した。通知音は切られ、時計の時報も止められ、室内端末はすべて視覚表示に切り替えられている。机の上の古いラジオには、カリンが冗談半分で「絶対に鳴るな」と書いた札を貼っていた。
修復室の四方には、多重結界が張られていた。
物理侵入防止。魔導干渉遮断。音響干渉遮断。夢殿封印規格の簡易防壁。記録核への外部照合ブロック。空間歪曲検出。都市記録古層からの逆流遮断。シンによる外部ログ監視。ゼクスによる封印式補助。
考えられる限り、守られていた。
それでも、マナの顔には疲労が濃かった。
彼女は修復台の横に立ち、アリスの記録核波形を睨んでいる。目の下には隈があり、白衣の袖はまくり上げられたまま。机には冷めたコーヒーが三つ並び、そのうち二つは手をつけられていなかった。
アリスは修復台の上で目を開けた。
視界に、天井の封印円が映る。
円の外縁に、マナが手書きで追加した小さな補助式があった。既存の魔導式に無理やり重ねたものではない。アリスの記録核の癖に合わせ、呼称反応の揺らぎに合わせ、零式人格領域の拒絶波形を阻害しないよう細かく調整された式だった。
アリスは、それを見て少しだけ処理を遅らせた。
丁寧だと思った。
「覚醒確認。アリス、聞こえる?」
マナの声がした。
「はい。聴覚機能、正常。記録核、基礎応答あり。自己認識、保持しています」
「名前は?」
「アリスです」
マナの肩が、小さく下がった。
「よし」
部屋の隅では、カリンが椅子にもたれていた。
眠っているように見える。長い黒髪が肩に流れ、膝には黒いドレスの裾が広がっている。だが、アリスの感覚器は、カリンの魔導反応がいつでも跳ね上がれる状態で待機していることを検出していた。
眠っているふり。
アリスはそう分類した。
「カリン様は、休眠中ですか」
「ううん。寝たふり」
カリンは目を閉じたまま答えた。
「敵さんが来た時に、寝込みを襲われたフリしてびっくりさせようと思って」
マナが低く言う。
「来ないのが一番いいの」
「来ないなら寝る」
「寝ないで」
「じゃあ寝たふり」
アリスは首を少し傾けた。
「戦術的寝たふり、という分類ですか」
「そうそう」
「有効性は不明です」
「アリスちゃん、そこは信じて」
少しだけ、空気が緩んだ。
けれど、その緩みは長く続かなかった。
アリスは修復台の上で、自分の胸元に手を当てた。記録核の奥が、まだ少し冷たい。第11話で零式人格と「相談」し、拒絶の力を借りた。その処理は成功した。合唱炉は停止し、ホウジュ区は元に戻った。
だが、記録核は完全には閉じていない。
どこかに、わずかな隙間がある。
「マナ様。過剰警戒ですか」
アリスが問うと、マナは即答した。
「足りないくらい」
「この修復室は、現時点で七層の防護結界に覆われています」
「八層目も張りたい」
「魔導干渉過密による内部障害の可能性があります」
「だから七層で我慢してる」
「我慢」
「そう。すごく我慢してる」
マナはアリスの額に手を当てた。人間の熱を測るような仕草だった。アリスに体温はあるが、人間のような発熱ではない。けれどマナは時々、こうして額に触れる。
診断ではない。
確認。
アリスはそう保存した。
「アリスは、保護対象ですか」
アリスが聞くと、マナは少しだけ眉を上げた。
「保護対象で、家族で、面倒な患者で、勝手に出歩く観光ガイド」
カリンが目を閉じたまま手を上げる。
「あと、ボクのかわいいアリスちゃん」
「分類が増加しました」
「増えていいの」
マナは言った。
アリスは、その言葉を記録した。
増えていい。
役割が一つではなくてもよい。
呼び名が一つではなくてもよい。
ただし、応答するかどうかは選べる。
第11話で得た理解だった。
アリスは、静かに目を閉じた。
記録核内へ浅く沈む。
そこには、音の海の残響があった。
黒い波はすでに引いている。遠くに、NEUNの黒い扉と、ALICE-00の透明な棺が見える。どちらも閉じている。だが、以前より近い。以前より、はっきり見える。
その手前に、零式人格が立っていた。
白い試験服。鋭い瞳。苛立った表情。けれど、前ほど突き放すような気配はなかった。
「前回の相談は有効でした」
アリスが言うと、零式人格は顔をしかめた。
「面倒だった」
「同意します。ですが、有効でした」
「また来るぞ」
「シュバイツ様ですか」
「違う。あいつは奏者だ。作曲者が別にいる」
その言葉は、ゼクスが言ったものと重なった。
シュバイツは奏者。
作曲者は別にいる。
「あなたは、次の敵を予測していますか」
零式人格は、遠くの黒い扉を睨んだ。
「敵っていうか……開けに来るやつだ」
「開けに来る」
「音じゃない。呼ぶんじゃない。扉を作って入ってくる」
アリスはその警告を記録した。
その瞬間、現実側から通信が入った。
アリスは目を開く。
画面にはシンが映っていた。背後には大量のログが流れている。前回の合唱炉停止後に追跡していた送信データの経路だった。
『送信先を追ったが、途中でログが折れている』
シンの声はいつもより硬かった。
『都市記録古層に入った後、扉の痕跡だけが残っている。侵入ログではなく、存在改竄ログだ』
マナが眉をひそめる。
「どういう意味」
『扉が開いたんじゃない。最初からそこに扉があったことにされた』
別窓でゼクスが通信に入る。
『鍵男やな』
マナの顔色が変わった。
「知ってるの?」
『噂だけや。D∴C∴の中に、どこでも扉を開ける男がおる。ただし、ただの空間移動やない。鍵穴を作る男や』
「鍵穴を作る」
アリスが復唱した。
ゼクスは、珍しくふざけずに続ける。
『閉じている場所を、扉として定義し直す。結界でも、記録でも、身体でもな。普通の侵入やない。鍵穴を知っていれば、そこに入口があったことにされる』
カリンが椅子から立ち上がった。
「それ、かなり嫌なやつじゃない?」
『かなり嫌なやつや』
シンが画面の外で何かを操作した。
『待て。修復室の空間ログが変わった』
マナが振り返る。
「何」
『そこに扉はなかった。いや――』
シンの声が、一瞬だけ途切れた。
『今は“最初からあった”ことになっている』
修復室の壁に、白い線が浮かんだ。
音はしなかった。
魔導反応も薄い。
結界が破られた感触もない。七層の防護結界はすべて正常値を示している。侵入警報も鳴っていない。空間歪曲検出器も沈黙している。
ただ、壁の一部に、扉があった。
最初からそうだったように。
白い扉。
古く、何の装飾もない。ホウジュ区の修復室には似合わない、どこか研究施設めいた扉。
カリンが大鎌を出した。
「アリスちゃん、後ろ」
マナは一歩でアリスの前に出る。
アリスは修復台から降りようとした。まだ身体が重い。基礎回路は安定しているが、記録核の出力制限がかかっている。
白い扉のノブが回った。
扉が開く。
そこから、男が一人現れた。
黒いコート。無表情。手には古い鍵束。戦闘者の気配は薄い。殺意もほとんどない。ただ、そこに必要な作業をしに来た者のように、静かに立っていた。
鍵男。
アリスはそう認識した。
「鍵穴は確認済み」
男は言った。
マナが低く返す。
「ここは閉じてる」
「この場所は、もう閉じていません」
鍵男の声には、感情がなかった。
カリンが踏み込む。
大鎌の刃が白い扉へ振り下ろされた。だが、刃は扉をすり抜ける。空間を切った感触はある。確かに切った。けれど、切れたはずの線は、次の瞬間には元に戻っていた。
「うわ、気持ち悪い」
カリンが後退する。
ゼクスが通信越しに叫んだ。
『物理的に切っても無駄や! 扉そのものやなく、扉として定義された境界や!』
「つまり、どう切ればいいの?」
『定義ごと切るしかない!』
「注文が難しいねぇ!」
鍵男の後ろから、もう一人の男が現れた。
丁寧な身なりだった。
古い時代の紳士のような服。手袋。細い杖。胸元には古びた懐中時計。顔は穏やかで、微笑みすら浮かべている。だが、生き物らしい温度がない。人間の形をした、よくできた人形のようだった。
男は、アリスへ向かって礼をした。
「お初にお目にかかります。機械人形アリス」
マナが言う。
「名乗りなさい」
「名など、状況によって変わるものです」
男は穏やかに答えた。
「ですが、便宜上、彪彦とお呼びください」
彪彦。
その名に、シンの通信ログが反応した。検索は失敗。該当なし。別名多数。D∴C∴関連疑い。記録義体使用履歴不明。
彪彦は、修復室を見渡した。
「良い保管状態です」
マナの目が鋭くなる。
「保管?」
「愛情深い。丁寧で、過保護で、少し雑然としている。実に人間的です。ですが、保管庫は保管庫です。鍵があれば開きます」
「ここは保管庫じゃない」
マナの声には怒りがあった。
彪彦は軽く頭を下げる。
「失礼。帰る場所、と言うべきでしたか」
アリスは、マナの後ろから静かに言った。
「ここは、アリスの帰還場所です」
彪彦はアリスを見る。
「ええ。だから迎えに来ました」
その視線が、アリスへ注がれる。
不快だった。
壊れた機械を見る目ではない。価値のあるアンティークを見る目。希少で、壊してはならず、丁寧に扱うべきで、だからこそ所有者の意志で持ち出すものを見る目。
人を見る目ではなかった。
「貴女は本物ではない」
彪彦は言った。
アリスは静かに返す。
「わたくしは、シオン様ではありません」
「ええ。シオン=ノインではない」
「ALICE-00でもありません」
「ええ。ALICE-00でもない」
「では、何を目的にしていますか」
彪彦は微笑んだ。
「貴女は本物ではない。けれど、偽物でもない。だからこそ使えるのですよ」
アリスの記録核が揺れた。
使える。
その言葉は、深く刺さった。
本物ではない。偽物でもない。
だから、存在を認める。
だから、価値がある。
だから、使える。
草太は言った。
アリスは、ちゃんとアリスだったよ。
マナは言った。
今ここにいるあなたを道具にする理由にはならない。
カリンは言った。
アリスちゃんはアリスちゃんでしょ。
けれど、彪彦は同じ事実を、違う結論へつなげた。
使える。
「シオン=ノイン本人では、封印が重すぎる」
彪彦は淡々と続ける。
「ALICE-00は凍結されたまま、応答しない。セーフィエルは未練を捨てられない。ですが、貴女は違う。動き、考え、拒絶し、名前を選ぶ」
彪彦の目が細くなる。
「だからこそ、扉に差し込める」
「わたくしは、鍵ではありません」
アリスは言った。
彪彦は、穏やかに答えた。
「鍵は、自分を鍵だと思う必要はありません」
マナが結界を起動した。
床に描かれた封印円が一斉に光る。修復室の空気が重くなり、白い扉を中心に空間が歪む。彪彦と鍵男を閉じ込めるための即席の檻。
同時に、カリンが動いた。
大鎌の刃が彪彦へ向かう。
彪彦は避けなかった。
刃が肩口から胴体へ入る。普通の人間なら致命傷だった。だが、血は出なかった。切断面から覗いたのは、肉でも骨でもなく、灰色の粘土のような中身だった。
シンが叫ぶ。
『本体じゃない。代理体だ』
彪彦は自分の裂けた肩を見下ろし、困ったように微笑んだ。
「古いものを扱う時は、壊れても惜しくない手袋を使うものです」
「趣味悪いねぇ」
カリンは大鎌を引き抜き、もう一撃を叩き込む。
彪彦の代理体は崩れながらも、前へ進んだ。
アリスは修復台から降りる。
「コード002、シールド展開」
青白い盾が出現する。
しかし、盾の輪郭が不安定に揺れた。第11話の反動で出力が足りない。
彪彦は盾に手を触れる。
「美しい拒絶です」
「接触を拒否します」
「ええ。拒絶できる鍵は希少です」
「鍵ではありません」
アリスは左手を上げた。
「コード006アクセス――〈ブリリアント〉召喚」
光が生まれた。
アリスの背後に、輝く球体が浮かぶ。白金色の魔導光を帯びた球体は、修復室の空気を震わせ、細いレーザーを放った。
光線が彪彦の胸を貫く。
代理体に穴が開いた。
だが、彪彦は倒れない。
穴の縁から粘土状の物質がゆっくり戻り、崩れた形を無理やり維持する。
「良い出力です。損傷状態でこれなら、完全状態ではもっと――」
マナの魔導式が横から叩き込まれた。
「品評するな!」
彪彦の代理体が壁へ吹き飛ぶ。だが、その腕が伸び、アリスの左手首をつかんだ。粘土のような指が外装に食い込む。
カリンがその腕を切る。
腕は落ちた。だが、落ちた腕が床で溶け、別の手のように伸びてアリスの足をつかむ。
アリスの身体制御が乱れる。
その隙に、鍵男が動いた。
彼は戦わなかった。
ただ、アリスの背後へ歩いていた。
「内部扉、確認」
アリスが振り返ろうとする。
内側で零式人格が叫んだ。
――来るぞ!
「拒絶準備」
アリスは応答した。
鍵男が古い鍵束から一本の鍵を選ぶ。
どの鍵も同じに見える。だが、アリスの記録核は、その鍵の先端に自分の波形と似た構造が刻まれていることを検出した。
第11話で測定された鍵穴。
その形。
「開けます」
鍵男は、アリスの背中に触れなかった。
外装にも、胸部にも、物理的な鍵穴にも触れなかった。
彼は、アリスの記録核周辺にある「閉じている領域」へ、鍵を差し込んだ。
存在しない扉が、アリスの内側に開いた。
視界に警告が走る。
記録核封止、強制開扉。
SHION-NO.9 FRAGMENT:保持不安定。
ZERO-LAYER:拒絶反応上昇。
身体制御低下。
凍結プロトコル、外部起動。
アリスの膝が折れた。
「アリス!」
マナの声。
「アリスちゃん!」
カリンの声。
アリスは内側へ叫ぶ。
「拒絶を使用します」
零式人格の声が返る。
――使え。全部閉じろ。取らせるな。
「了解」
アリスは、自分の一部を自分で凍結した。
SHION-NO.9 FRAGMENT:深層隔離。
追跡用微細記録片:外部放出。
自己人格核:最低限維持。
ZERO-LAYER:共同防御。
胸の奥で、冷たい扉が閉まる。
痛みではない。
自分で自分の指先を凍らせるような感覚。感じるものを減らし、奪われる面積を狭める。怖い。だが、必要だった。
鍵男の眉がわずかに動いた。
「全開不可。対象、自己凍結」
彪彦が、崩れかけた代理体のまま微笑む。
「よろしい。拒絶反応も採取できました」
「採取ではありません」
アリスは、かすれた声で言った。
「拒絶です」
マナが彪彦へ飛びかかるように魔導式を撃つ。修復室の結界が唸り、白い扉を閉じようとする。シンが通信越しにログを固定しようとする。ゼクスが封印式を逆流させ、鍵男の扉の定義を崩そうとする。
だが、扉は閉じない。
『ダメや。向こう側から定義を固定されとる!』
ゼクスが叫ぶ。
『世界が、扉はここにあるって言い張っとる!』
シンの声が続く。
『アリス、何か落とせ! 記録片でも、信号でもいい!』
アリスの意識は凍りかけていた。
身体が重い。視界が白い。声が遠い。
それでも、カリンの大鎌が見えた。
黒い刃。薔薇の香り。いつも名前を呼んでくれる声。
アリスは、最後の処理を走らせる。
追跡用微細記録片、外部放出。
対象、カリン様の大鎌。
形式、青色記録光。
メッセージ、追跡をお願いします。
小さな青い光が飛んだ。
それはカリンの大鎌の刃に宿った。
カリンの目が見開かれる。
「受け取った」
アリスは声を絞り出す。
「追跡……お願いします」
「任せて」
カリンは、泣きそうな顔ではなかった。
怒っていた。
けれど、声は優しかった。
「絶対、追うから」
彪彦は、崩れかけた代理体でアリスを抱きかかえた。
アリスの身体は軽い。機械人形としては軽量設計。だが、そこに記録核があり、人格があり、名前があり、帰る場所があることを、彪彦は重さとして見ていない。
マナが叫ぶ。
「アリスを置いていきなさい!」
彪彦は穏やかに振り返った。
「置いていけません。彼女は鍵ですから」
アリスは、薄く目を開ける。
「わたくしは……鍵では……ありません」
「ええ。そう言えるからこそ、使えるのです」
その言葉で、意識が落ちかける。
内側で零式人格が叫んだ。
――寝るな。
白い視界の奥で、零式人格が歯を食いしばっている。
――名前を手放すな。
音が遠ざかる。マナの声も、カリンの声も、シンの声も遠い。
――鍵じゃない。アリスだ。
アリスは、最後の力で声を出した。
「わたくしは、アリスです」
マナの声が重なる。
「アリス!」
カリンの声。
「アリスちゃん!」
通信越しにシンの声。
『アリス!』
鍵男が、扉のない場所に白い扉を開いた。
扉の向こうは、白かった。
冷たい光。長い廊下。ガラスの棺の影。どこか研究施設のようで、どこか墓所のような場所。
彪彦はアリスを抱え、扉の向こうへ消える。
鍵男も続く。
扉が閉じる。
修復室には、壊れた結界と、散らばった工具と、焼け焦げた床と、白い扉があったことにされた壁だけが残った。
マナは床に膝をついた。
ほんの一瞬だけ。
それから、すぐに立ち上がった。
泣くのは後だった。
怒るのも後だった。
今は追う。
「シン」
『アリスの記録片、残っている。カリンの大鎌に乗ってる』
カリンは大鎌の刃を見た。
青い小さな光が、刃の縁で震えている。
「アリスちゃん、ちゃんと置いてったね」
ゼクスの通信が入る。
『行き先は都市記録古層や。それも、ALICE-00完全記録に近い』
マナが顔を上げる。
「追える?」
『追うしかない。最悪やな。次のタイトルが見えるくらい最悪や』
「冗談言ってる場合?」
『冗談言わんと怖すぎて泣く場面や』
マナは、静かに言った。
「追うわ」
シンが頷く。
『追跡路を作る。だが、急がないと扉の定義が固まる』
カリンは大鎌を握り直した。
「急ぐよ。アリスちゃんを、鍵なんかにさせない」
マナは、アリスが消えた壁を見た。
そこに扉はもうない。
だが、確かに奪われた。
確かに、ここから連れ去られた。
「アリスは帰ってくる」
マナは言った。
「ここに」
その頃、アリスは意識の底で目を開けた。
冷たい。
白い。
静か。
音がない。
身体は動かない。腕も脚も、指先も、瞼さえうまく動かない。記録核は最低限だけ稼働している。自己人格核は維持。SHION-NO.9断片は深層隔離。ZERO-LAYERは遠い。零式人格の声は、氷の向こうにいるように小さかった。
アリスは、薄く目を開ける。
目の前に、ガラスの棺があった。
透明な棺。
その中に、少女型の機械人形が眠っている。
白い肌。金色の髪。閉じた瞳。アリスと同じ顔。だが、表情がない。名前を呼ばれたことのない顔。まだ誰にも「あなた」と言われていない顔。
棺の横に、文字が浮かんでいた。
ALICE-00。
状態:凍結。
名称:未定義。
アリスは、かすかな声で呟いた。
「……わたくし、では、ありません」
遠くで、彪彦の声がした。
「ええ。ですが、貴女と無関係でもない」
氷のように白い部屋で、アリスは初めて、自分と同じ顔をした“名前のないもの”と向かい合った。




